落下の解剖学を振り返る

https://note.com/walmono/n/nec266daae22e
先日投稿した落下の解剖学の感想にコメントをいただけた、と思いきやコメントが取り下げられていた?(ぼくは消してません)
と、いうことでコメントいただいたことによりこの映画を思い返してみて気がついたことを書いていきたいと思います。せっかく返信をメモにまとめたのに消しちゃもったいないし

まず、振り返ってみたり他の人の感想をチラ見して思うのは、「落下の解剖学」をミステリもののように何か一つの解として「真実」があってそれを見つけ出すつもりで観る映画ではないと思います。
この映画が映し出していたもの、話の大筋は、サミュエルの落下が他殺か自殺か事故かの「真実はどうであれ」ダニエルは決断して判事がそれを認めたことだと思います。

「真実はどうであれ」がこの映画の重要なテーマだと思っていて、物語のなかでもテレビでコメンテーターが「真実はどうであれセレブが夫婦の不仲の末に殺人をしたのであれば大衆は喜ぶ」という旨の発言をしていました。その一方で当事者・関係者であるダニエルは「真実はどうであれ」母とこれからを生きていく決断をした、という対比になっていると私は解釈してます。

また「真実」があろうともそれが一度人を介してしまうとそれは揺らいでしまうということも映画内で描写されていました。
ダニエルが最後にサミュエルの声を聞いた(だったっけ?)と証言したのを警察が検証するシーンです。
きっと確かにダニエルは散歩の前に声を聞いていたはずなんです。それは「真実」なはずです。ただその通りに検証をすると怒鳴るよりもはるかに大きな声を出さないと聞こえなかったりと矛盾してしまい記憶違いや勘違いだったと記憶のなかの「真実」が揺らいでしまうのです。
で、記憶の中の「真実」は不確かであるからこそダニエルは犬にアスピリンを飲ませてあの時のサミュエルとの類似点を検証しようとしたのです。

僕はこの映画は「記憶の中の真実は曖昧なものであるし、真実はどうであれ自ら決断した現実を生きていく」というお話だと思っていて、サミュエルの落下の原因が何か考察によって突き止めることができるとするのはナンセンスだと思います。

以上です。最後までお読みいただきありがとうございます。

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