子どもは手段を選ばない -初めてのコラム 多摩湖を見て

元旦。今日は家族で多摩湖へ行った。(なんとなく縁起が良さそう)

西武多摩湖線の武蔵大和駅を降り、15分ほど坂道を登ると多摩湖が見えた。

写真1:多摩湖に浮かぶカモの群

多摩湖を訪れるのは初めてだったが、都内とは思えない規模の湖と公園を目にすることができ、嬉しかった。

都心は全てが狭く、小さい。新潟県出身の私は、都内で大きい存在に出会うと「東京なのにこの大きさ!」と形容してしまう(関係ないが、2021年で東京在住7年目になることへ衝撃を受けた)。

前回「東京なのにこの大きさ!」モードを発動したのは、表参道のお洒落ハンバーガーを食べた時である。

写真2:表参道のデカいハンバーガー

表参道のハンバーガーなんて、素材と空間を重視しすぎた結果「腹を満たす」という食の基本目的を達成できない外道フードだろ!と思っていた。しかし、実際は、お腹いっぱいになったし「ハンバーガーのあとタピオカを飲もう」という約束も反故にするほどだったと記憶している。多摩湖のデカさは、表参道のハンバーガーと肩を並べる。

...多摩湖の規模感はさておき、今日は元旦ということもあり、家族連れをよく目にした。自宅から多摩湖に着くまで、カラフルなダウンを着た子どもとその親がたくさん歩いていた。

子どもというのは、不思議な存在だ。おそらく、彼らは、何かに乗りたがる。スクーター、ローラーシューズ、ブレイブボード・・・今日すれ違った子どもの多くは、何かに乗っていた。

中でも、3〜4才の子どもは不思議な乗り物を漕いでいる(「漕いでいる」と表現するのは不適切かもしれない)。ペダルのない2輪車にまたがり、足でひたすら地面を蹴っているのだ。普段我々が利用する自転車にはペダルがあるが、彼らの“自転車“にはペダルがない。よって、彼らはただ地面を蹴ることで前に進むのだ(その様子はなんだか馬鹿らしい)。

多摩湖へ向かう電車内、「ペダルなし 2輪車 子ども」と調べた。あの滑稽な乗り物は「キッズバイク」と言うらしい。

写真3:キッズバイクの画像

3〜4才の子どもは、この小さな乗り物を一生懸命に漕ぐのである(ペダルがないのに「漕ぐ」は違いますよね)。

なぜ彼らは、これほど馬鹿らしい乗り物に乗るのか?

子どもは不安定なハンドル捌きでキッズバイクを漕ぎ(「漕ぐ」以外にキッズバイクを乗り回すことを表す動詞があれば教えて欲しい)、通行人とぶつかりそうになる。通行人は中型犬ほどの背丈しかないキッズバイカーとぶつからないよう、目線を下げたり身体をクネらせたりする。親は子どもが通行人にぶつからないよう、常に気を払い「危ない」とバイクのハンドルを手で誘導したりする。

キッズバイクとは、本当に意味不明だ。同時に、それに興味をもつ子どもも意味不明だ。

とはいえ、私が幼稚園生だった頃キッズバイクが存在したなら、間違いなく親にねだっていたとは思う。あの頃は、「楽しそう」と思ったら素直に欲望へ従っていた。プリキュアで流れるCMを見たら、「このおもちゃ欲しい!」と親にねだった。仲良い友達から「おままごとしよう」と誘われたら、ペット役として喜んで参加した。「雪が降っていない」とか自然の領域にも、全力でキレたり喜んだりしていた。

大学生になった私は、言い訳探しの達人である。「楽しそう」と思っても、面倒くさそうな性分が見つかればスッと手を引く。お笑いサークルの新歓に参加したが最後、LINEグループを退会したのは記憶に新しい(私はお笑いの大ファンである)。この冬休みには、ライブに出演して人前で演奏したかったけれど「弾き語りにはアコギが必要、エレキ一本では戦えない」と自分に言い聞かせ、先の伸ばしにした。夢が実現しないよう、理由づけの日々である。この言い訳を色紙に書いたなら、私が経験してきた別れだけでは不十分だ。

2021年は、意味のない夢も泥臭く追い求めたい。書き初めするなら「危なくて値段も高く、交通手段として無価値なキッズバイクのため、手段を選ばない子ども」である。

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