見出し画像

全知全能の神を語る人間は意図的であるかないかは別として、全員、嘘をついている

あまり深くカルトに関わっていなかった信者は、自分が間違っていることを認める傾向にあったが、家や仕事までカルトに捧げ、深くはまり込んでいた信者は、現実の証拠を前にしても、自分たちは最初から間違っていたわけではなく、自分たちの信仰のおかげで世界は破壊を免れたのだと解釈する人が多かった。この観察から、フェスティンガーは独創的な考察を得た。「信念は、深く信じているほど捨てるのが難しい。たとえその信念と矛盾する決定的な証拠を目の前に突き付けられても捨てられないものである。人は、判断の誤りを認めてその考えを捨てるのではなく、古い信念の維持を正当化する新しい態度や新しい信念を作り出そうとする」。

反社会性パーソナリティ障害(ASP)は精神病質(Psychopath)よりも広範囲分野を指す。

ソシオパスは十分な善悪の判断力も、他人への共感、罪悪感、忠誠心を持つ能力も備わっているといえる。ただ、自分の属する文化やグループの規範や予測に基づいて善悪を判断する傾向があるというだけだ。犯罪者にはソシオパスが多い↓
反社会性パーソナリティ(ASP)は、群れをなすことを特徴とし、社会病質者(ソシオパス)を指す。羊飼いがヤギにひっくり返されると、ソシオパスは高機能BPDになる。ソシオパスの部下は中機能から低機能のBPDになる。根本的な問題は、ソシオパス(羊飼い)が羊をヤギから引き離し、さらにその事実を羊に秘密にしていることにある。
誹謗中傷やさまざまな妨害を始める人↑

この障害がもたらす苦しみと絶望の種類はそれぞれの状況によって違っているものの、それに対して家族が示す反応は多くの場合きわめて似ているからである。彼らは身内のASPの人間の話題に触れられると、反射的に自己防衛的になり、事実を受け入れようとせず、問題を否定しようとする(中略)家族意識にさらに輪をかけるのが、家の面子(メンツ)である(中略)大切なのは、あなたがどうしてそのようになってしまったのかではなく、その事実に今後どう対処していくかである(中略)あなたは自分の行動上の問題がどれほど重症か気づいていないかもしれないが、あなたの妻子は十分知っている(中略)あなたの問題は、自分が負わねばならない責任を負おうとしないところから発生しているのである(中略)過去に起きたことはもう変えられないのだ。 だが、将来は変えることもできるということを理解すべきだ(中略)【真実の否定】心理学用語で、自分にとって耐えがたい記憶や都合の悪いこと否定して、不安感などを軽減しようとする無意識的または意識的な自己防衛のこと(中略)私たちがASPの謎を完全に解き明かすことは永遠にできないかもしれないが、根気よく研究を続けていくことにより、少なくとも苦しんでいる人たちの人生を少しでも楽にすることができると私は信じたい(中略)この障害が人類全体に及ぼす影響の広がりを理解し、その実体をつかむには、時間とお金がかかる(中略)だが、この問題の原因と究明と予防ということになると政治的な理由からどの政党も及び腰になってしまうのが実情だ。というのは、第1章でも少し触れたように、研究の結果、もし特定の民族や人種に強い暴力的傾向が遺伝的に伝わっているなどということが発見されでもしら、大問題になってしまうからである(中略)中流や上流の人々が家族にASPがいることを隠そうとする傾向がなくなることはない(中略)この障害を持った者たちは、今後も引き続き、あらゆる家庭や社会にさまざまな形で破壊と混乱を巻き起こすだろう。今こそ、この障害が現実にたくさんの悲劇を生んでいることを認めなくてはならない時なのだ(中略)ASPは現実認識能力の喪失を伴わない。本人は自分が何をしているのかも、十分によくわかっている。彼らは善悪の区別はできるのに、それを無視しているのである。彼らは意図的に行動しており、意識は極度に自己中心的なゴールに集中している。つまり、彼らは自分の行動に100パーセント責任を持っており、その責任は追求されなければならない。

誹謗中傷やさまざまな妨害を始める人↑

反社会性パーソナリティにもBPDとおなじように、衝動性、フラストレーションに対する弱さ、操作的な対人関係といった特徴はありますが、反社会性パーソナリティのほうは、良心や罪悪感を欠き、周りに対する関心が薄く、意識して自己破壊的な行為に及ぶことはありません。

泣き落としはソシオパスの特徴である。対照的に、ヤギであるサイコパスには、泣き落としを使うシチュエーションが来ることはない。

良心なき人びとにたいして行動を起こすためには、まず彼らを見分ける必要がある。最高の目安になるのは、おそらく〝泣き落としだ〟と(中略)なぜ同情を買うのが好きなのか、私にはとてもよくわかる。その理由は、善良な人たちが、かわいそうな人間にたいしては、殺人をも見逃しがちだからだ(中略)人は平気で悪事を働く相手をかばったりしてはいけないとわかっていながら、哀れっぽいようすを見せられると、つい許してしまう(中略)だれを信じるべきか判断するとき、忘れてはならないことがある。つねに悪事を働いたりひどく不適切な行動をする相手が、くり返しあなたの同情を買おうとしたら、警戒を要する。その両方の特徴をそなえた人物は、かならずしも大量殺人者とはかぎらないし、まるで暴力的なところがない場合もあるだろう。それでも友人として、ビジネスパートナーとして、あるいは結婚相手として、近づいてはならない相手と言えそうだ(中略)だれもが死の収容所の司令官になれるわけではないが、他人の恐ろしい行動に目をつぶる人は多い(中略)相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追求できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする(中略)逆恨みをして起こりだし、相手を脅して遠ざけようとする(中略)そして恐ろしいことをする人間は、外見的には恐ろしいことをしそうに見えない。私たちは相手の外見でその人柄を判断しようとするが、たいていの場合うまくいかない。現実の世界では、悪者がいかにもそれらしい顔をしていることはないのだ(中略)「なぜあの人が、こんな恐ろしいことを?」私たちは自問する。「あの人」というのは、一見ふつうに見える人、という意味だ。それは肩書きをもち、動物を愛し、親であったり配偶者であったりする人だ。魅力にあふれ、夕食あるいはそれ以上をともにした相手かもしれない。

誹謗中傷やさまざまな妨害を始める人↑

怖いのは、こういう人たちが「抽象度の高いゴール」を持つ人たちを引きずりおろそうとすることです。 抽象度の低い人は、より抽象度の高い情報空間を見ることができないと先ほど説明しました。ゴールの抽象度も同じです。抽象度の低いゴールを持っている人は、より抽象度の高いゴールを持っている人のことが理解できません。つまり、「自分だけが嬉しいゴール、自分の煩悩を満たすためだけの自己実現」の世界で生きている人は、「社会的な、自分を超えたゴールの達成こそが自己実現」だと考えている人が理解できないのです。そもそもそんな人がいるわけがないと思っているし、もしそんなゴールを語る人がいたら「噓つき」だと思っています。自分より抽象度の高い世界は見えないのだから、当然です(中略)理解できないために、彼らにとって「抽象度の高い人」の存在は、とても居心地が悪く、不愉快なことです。そこから「奴らを引きずりおろせ」という発想が出てきて、誹謗中傷やさまざまな妨害が始まります───苫米地英人博士(著書名失念)

  ↑福島原発事故の際、アウトドアグループ、マルチ商法グループと連携し、誹謗中傷やさまざまな妨害を始めた人々。彼らはアリバイ作りのために、被爆防御に関する本を出版し、あたかも自分たちも被爆防御活動をしているかのように振る舞った。

こちらが論理立てて説明し、証拠まで示しても、そこで観念するということがあまりない(中略)また一度否認をするとそれに固執し、なかなか本当の事を話してくれない(中略)女性は嘘をつく時でも、相手と目を合わせながら話すことが自然とできる人が多い(中略)事実を陰蔽してでも会社を守ろうという防御本能が働き、わらをもつかむ思いで「嘘」に手を染めてしまう。そういう意味では、企業のこうした「嘘」も、「防御の嘘」と同じ仕組み(中略)嘘が混じっていないかと疑う気持ちが無ければ、専門的な知識に圧倒され、丸め込まれてしまう(中略)「女性」はやはり嘘がうまい(中略)最も原始的な段階の嘘は「完全否定」(中略)自分を守ろうというのは本能的な行動ですが、一方で他人や組織をかばうという行為は非常に理性的な行動(中略)取調中に苦労した「擁護の嘘」は、そういった良心や思いやりで動くものだけではありませんでした(中略)典型的なのは、政治家のために秘書が罪をかぶる、経営陣のために平社員が責任をとる、組織のために下っ端が犠牲になるなどのケースでしょう。重要人物や巨大組織を守るため、その下にいる人間が犠牲になります(中略)この嘘を強いる原動力は、下の人間の嘘によってかばわれることとなった人(組織)の力の大きさ(中略)こうした理性的な嘘は、崩すのがなかなか難しい(中略)組織や重要人物をとりまく人間関係や利害関係、権力の構図などを理解できて、初めて全容がつかめる(中略)もし皆さんもこのような嘘の介在を感じ取ったら、そして不利益を被っているなら、多少踏み込んででも、人間関係や利害関係を洗い出したほうがよいでしょう(中略)嘘を見抜くには、まず嘘に勘づかなくてはいけません。このとき役に立つのが、嘘をついた人に表れる「嘘反応」(中略)嘘がうまい人に多いのが「話のすりかえ」(中略)無実の人間は、自分が疑われているということに本当に怒っているので、それがずっと持続する傾向にあります。逆に嘘をついている犯人は、演技として怒りの表情を一時的に作るにすぎない。内心は焦りや不安に満ちていますから、その演技をずっと続けることが難しい

相手の感情を見抜くことは、比較的簡単にできます。 口の動きを見れば良いのです。 これは「表情分析学」と呼ばれ、表情を動かす筋肉の動きを分析して、人間の内面に迫ろうとする学問です(中略)人間がリアクションをする時には、本心が0.1〜0.2秒くらいは必ず出てしまうのです───メンタリストDaiGo氏(著書名失念)

「微細表情」とは、五分の一秒以下しか顔に表れない表情のことで、多くの場合、「人が意識的に自分の気持ちを示す表情のサインを隠そうとしている」時に見られる。

マクロビオティックのタレントは復興庁のアンバサダーとなり、三浦春馬の母が直伝レイキの株を保有していたこともあり、三浦春馬はマクロビオティックの食べて応援リレーの発起人的立場となり、2つのベジタリアン食べて応援リレーは三浦春馬が亡くなるまで続いた。

ポール・エクマンとウォレス・フリーセン(1978)は、顔が作る表情の複雑さを探るために、顔面表情記号システム(FACS)を開発した。FACSとは、顔面の筋肉の動きを測定するためのシステムである。FACSで訓練を受けた人は、表情の動画を見て顔の筋肉の動きや強度などの性質ごとに得点をつける(中略)システムを使えるようになるまで100時間の訓練を必要とし、訓練を受けた者でもたった1分間の顔面の表情に得点をつけるのに60分程度かかる(中略)FACSを使った研究者は、偽りの微笑みと喜びの微笑みの違いを比較的簡単に発見できる。

エクマンとフリーセンが発見した「微表情(micro expressions)」だ。これは一秒の何分の一というほんの短い時間だけの表情変化のことで、その人の隠れた本心が表れる。一瞬で消えてしまうので見分けるのはとても難しいが、訓練して知覚を研ぎ澄ませば解読できるようになる。普通の表情と違って、微表情はごまかすことができない。

表情やそのほかの非言語行動を観察すれば漏れたうそを見抜けるようになる↓

陰と陽を共に生きるためには、案内が必要だ。仏陀は陰に対して歴史上最も透徹した案内者であった。

陰と陽という逆の力は実は相互につながっており、均整がとれたとき両者は対立ではなく補完的になる。

道(タオ)の印(※陰陽のマーク)は、自然や仲間と共存するための「道(みち)」を意味し、白と黒の渦巻きの形↓
釈迦は、神を否定した結果、人々が神を必要とする理由を全部解決

キリスト教世界では長い間、釈迦の教えのことを「悪魔の宗教」と呼んでいました(中略)東洋で一番有名なのは、道教のタオでしょう。道教においてタオは、アプリオリなものです。中国語でタオは、それだけであるもの、という意味で、まさに公理のことです。バラモン教のおいて宇宙の根本原理とされるブラフマンも、同様に公理です(中略)この世にアプリオリなものはないと証明されているわけですが、この21世紀においても、いまだにこのようなエセ知識が幅を利かせているのが現状です(中略)およそ2500年前に、釈迦は、「アプリオリはない」と唱えました(中略)ちなみに、現代においても、わけ知り顔の評論家などが、テレビで 「それはアプリオリにわかっていることだ」とのたまうシーンをときどき見かけます。こういうものの言い方は、いわば猫騙しみたなもので、衒学的な言葉を使って相手を黙らせようとする意図が見え見えです(中略)釈迦の教えのなかには、あらゆる宗教に内在する本質的な矛盾がありません。それは、部分情報である人間に、なぜ完全情報のことがわかるのか、という問題です(中略)いくら位が高くても神でもない人間に、なぜ神が神だとわかるのでしょうか(中略)最終解脱者だとうことを、最終解脱者でもない信者にわかるはずもありません。つまり、全知全能の神を語る人間は意図的であるかないかは別として、全員、嘘をついていることになります(中略)わかるはずもないものをわかると、確信犯で嘘をついている場合があるわけです(中略)釈迦は、神を否定した結果、人々が神を必要とする理由を全部解決してしまいました。神を必要とする理由のひとつは、部分情報である人間が完全情報に憧れることです(中略)死を恐怖する人に対しては、「死んだら、その怖がっている君はいないんだよ」の一言で終わりです(中略)釈迦は80歳で死んだとされていますが、実はそれも暗殺だった可能性が高いと私は考えています(中略)実際に、釈迦の教団では、結果的に中心的な弟子たちはみな殺しのような目に遭ったことが伝えられています───苫米地英人博士(著書名失念)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?