見出し画像

まず最初に我々がなすべきは、すべての法律家を殺すこと。───『ヘンリー六世』第二幕

《種をまく人》がまいているのは何か?

「ミーム(meme)」という言葉は、動物行動学者で進化生物学者リチャード・ドーキンスが、一九七六年に著書『利己的な遺伝子』のなかで使ったものだ。これは遺伝子(gene)を意識してつくられた。ミームは文化的にそれに匹敵するものだからである。ミームは複製や真似のプロセスを通じて脳から脳へ広がっていく言葉、アクセント、アイデア、メロディなどをいう。

「ミーム・ドロップ」で情報を拡散する

当時、サマリア人とユダヤ人(他の登場人物はすべてユダヤ人だ)は激しく敵対しており、サマリア人は今で言う「無神論者の暴走族」と同じくらい社会ののけ者だった↓

新(ネオ)無神論者は「明るい者(ブライト)」を自称している〔ヒッチンス、ドーキンスと、あとに出てくるサム・ハリス、ダニエル・デネットの四人は、ネオ無神論者の4騎士とも呼ばれる〕(中略)ネオ無神論者とは、映画館の外に立って、レオナルド・ディカプリオが本当にタイタニック号とともに沈んだわけではないのだと告げる人のようなものだ。そんなことなど、言われなくてもわかっている(中略)ネオ無神論者の懐疑的な態度は、たしかに私も持っているが、宗教に価値を見出している多くの人たちを侮辱したところで何になるというのか?(中略)イギリスの哲学者ジョン・グレイは次のように述べている。「科学は魔法ではない。知識が増えれば人間にできることも増える。それでも人間を各自の境遇から救い出すことはできない」。

ブッダやストア派の哲学者が数千年前に述べたように、幸福は内面からやって来ると考えていた。「自分の望みどおりに世界を変えることなどできはしない。だから自分自身と自分の欲望を変えることに的を絞れ」ということだ。だが、執筆し終わる頃までには、私の考えは「幸福はあいだからやって来る」へと変わっていた。つまりそれは、他の人々や仕事、あるいは自分より大きな存在とのあいだに正しい関係を結ぶことで得られるのだ(中略)無神論者がつむぎ出すストーリーの第一ステップは、超高速の行為者探知機だが、これについては特に何も言うつもりはない。

種蒔く人はキリストである(中略)デネットは無神論者である。したがって、宗教を冷ややかに否定したり、ドーキンスのように悪しきウィルスのように扱うような無神論者ではない。デネットは、このような無神論者から自分を区別するために、自分のことを「ブライト」という新語で呼んでいる。私は、無神論者としてのニーチェを研究している神学者を知っているが、それと同じように、デネットは、宗教に理解のある無神論者である(中略)デネットは、すでに述べたように、検証可能と思われる仮説を組み合わせて理論を提示しているが、それは答えではない。それは、無神論者、有神論者を問わず皆で議論をして行くための叩き台にすぎない。デネットも主張しているように、それを肯定するも良し、それを否定するも良し、である───訳者あとがき

デネットが、クオリアはあるのでもなく、ないのでもないと説き、自己はあるのでもなく、ないのでもないと説くとき、彼は中観・空観の哲学と文字通り同一の論理的基盤に立っているように思われる。デネットが自己の、世界の、意識の、「ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)の哲学」を説いて、あくまでも存在の仮の姿としての限りでの現実に耐えていこうと決意するとき、いかなるものをも神格化することなく、無常の定めに耐えて存在のあるがままの姿で尊んでいこうとする、仏教の慎ましい世界を思わせる───日本ヴェーダ―ンタ協会理事 山口泰司教授

お人好しはただ単に、人がいいわけではないのです。お人好しこそが本当の成功者であり、そのために一大勢力となっているということなのです。この何だかわかったようで、わからない理屈については、「囚人のジレンマゲーム」という賭博ゲームを応用することできちんと解明されました(中略)最も多くの得点を稼ぎ、優勝したのは、カナダの心理学者が提出した、「やられたら、やり返す」というプログラムでした。ただし倍返しでも一〇倍返しでもなく、やられたときに、やられた分だけやり返すというもの。自分からは決して裏切らず、相手が裏切ったときだけ次の回に一回、裏切り返す(中略)こういう何ともお人好し、誠実で寛容、非常に心優しいプログラムがどうして優勝をかっさらってしまったのか。ちょっと不思議です。ところが、この大会で上位半分を占めたのは、自分からは決して裏切らないというタイプのプログラムでした。 何と「お人好し」であるほうが得をするというわけです。一方、下位半分は、とにかく自分から裏切ることがある戦略を占めました。「悪いやつら」です(中略)このゲームではいかに両者が協調しあうかがポイントで、互いに協調を続けた期間が長いほど、最終的に高得点が得られるのです。

ゲーム理論の教科書には、現代幾何学の教科書に円と三角形があまり出てこないのと同じように、ゲームはあまり出てこない(中略)『利己的な遺伝子』は新しい事実を何一つ報告していない、何らかの新しい数学的モデルを含んでいるわけでもない───そもそも数学がまったく含まれていない。それが提供しているのは、一つの新しい世界観なのである(中略)DNAの真の「目的」は生きのびることであり、それ以上でもなければそれ以下でもない(中略)訳文中、淘汰ということばがたくさんでてくる。これは当然ながら selection の訳である。この訳語は本来「ふるいおとす」というニュアンスの強いことばであるが、この本ではむしろ「自然淘汰の過程で生き残る」という意味に使っている(中略)「囚人のジレンマ」はノンゼロサム・ゲームである。お金を支払う胴元がおり、したがって二人のプレーヤーは手を組んで、終始ずっと胴元をこけにしつづけることが可能である。この胴元をこけにするという言い方は、シェイクスピアの楽しい一句を思い起こさせる。まず最初に我々がなすべきは、すべての法律家を殺すこと。───『ヘンリー六世』第二幕

「いや、あれはおれの宿命だったんだからあれしかなかったんだ」と思ったりもする。が、デネットの回答というのはこういうものだ。複雑な条件の下ではシミュレーションするより実際にやるほうがはやい───訳者 山形浩氏

進化は体や脳だけではなく、観念にも見られる。「ミーム」は、リチャード・ドーキンスがこの言葉を作ったときの定義では、インターネット上で拡散されるキャプションつきの写真のことではなく、人から人への伝達が何度も繰り返されることで形成されてきた共有可能性の高い観念のことだった。たとえば耳にこびりついていてつい口ずさんでしまう歌や、伝えずにはいられないと思わせる物語もそこに入る(中略)練習すると認知能力が高いほうがより大きく力を伸ばしていく(中略)主効果と交互作用の違いを知っていれば、誤った二分法に陥らずにすむし、根本的な原因がどのようなものなのかを深く見抜くこともできるようになる(中略)政治的バイアスが超党派のものであることを示すディットのメタ分析(中略)原因が複数あるという発想がすでに浮かびにくいのだから、複数ある原因同士が互いに作用するという発想はもっと浮かびにくい(中略)こうした発想が浮かびにくいのは、わたしたちが複数の原因について考えたり語ったりするための語彙を身につけていないからでもある(中略)一般的には道徳の進歩は闘争によってもたらされると考えている。権力者が特権を自ら手放すことはないので、民衆が連帯して力ずくで奪い取るしかないという考え方である。ところが、道徳の進歩の実態を解明しようと調べてみたところ、ドミノ効果の最初の1枚が理路整然とした議論だったという例が歴史上非常に多いことがわかり、わたしは大いに驚いた。たとえば一人の哲学者が、ある行為がなぜ許されないのか、なぜ非合理なのか、なぜ人々の価値観と矛盾するのかについてはさほど長くない文章を書く。その小冊子ないし宣言文が人々のあいだに広まり、他の言語に翻訳され、パブやサロンやコーヒーハウスで議論の材料になる。そしてついには指導者に、議員に、そして世論に影響を与える。

この歴史書はミームの一例である。もともと生物学者のリチャード・ドーキンスによって提案されたミームは、複製し進化するものであり、遺伝子によく似ているが、媒介するのは文化である(最近、「ミーム」という言葉はインターネット上の画像を表現するのに使われるが、私はもとの定義で使っている)。個々の生体が一連の互いに支え合う遺伝子によってつくられるのと同じように、歴史書は実質的に一連の互いに支え合うミームである。たとえば、本に書かれている個々の教えが1個のミームと考えられる。歴史書のミームは、本が正しいと信じる人の遺伝子と共生関係にある。たとえば、本が正しいと信じる人は。ほかの信じる人から優先的に支えられるべきだと、本は指示している。そのおかげで、信じる人は多くの生き残る子ども(より多くの遺伝子のコピー)をもうける可能性が高くなり、それが次に、本が真実だと信じる人の増加(より多くのミームのコピー)につながる。ミームと遺伝子は進化し、しかも互いに補強し合うように進化することができる。

もしドーキンスが苦手だという人には、アンリ・ポワンカレのこんな言葉がある。「学者が自然を研究するのは、それが役に立つからではなく、楽しいからであり、楽しいのは、自然が美しいからだ。もし自然が美しくなかったら、知る価値はないだろうし、人生も生きる甲斐がないだろう」

あまり効率的ではない宗教を崇拝する集団も、必ず淘汰されるわけではなく、より効率的な宗教に鞍替えする場合がある。要するに、実際に進化するのは宗教であって、人間や遺伝子ではない。

「生贄」を意味する英単語 sacrifice はラテン語に由来し、「神聖なものにする」という意(中略)古代の習慣の名残は、ユダヤ教のコーシャとイスラム教のハラールの規定にいまも見られる(中略)神々との敬意に満ちた関係を維持するために、一連の手順と祈祷が必要なのだ(中略)最も近代的なコーシャやハラールの屠畜でさえ大規模工場で実施されており、祈祷は録音されたものをエンドレスで流す場合が多い。

贈り物をするにあたって社会的な評価を最大にするためには、自分がどれほど犠牲を払ったかを他者に見せる必要がある(中略)余分な「よい」行動は望ましくないコストである。脳にとって理想的な状況とは、自分は神の怒りを恐れていると相手に信じ込ませながら、神などまったく恐れないような行動をとり続けることなのだ(中略)ムハンマドが最後の預言者だと信じることは、混乱をもたらす新しいお告げがそれ以上出てこないようにするにあたって好都合だ。キリスト教では、神と一般信徒の仲介役として聖職者が必要である(あるいは必要でない)と信じることが、教会組織における聖職者の役割を決定している。そのような信念の利点は見ればすぐにわかる。すなわち、神学という名の政治である(中略)特定の信念を持つことの価値は、それにしたがって行動することではなく、自分がそれを信じていると他者に思わせることにある

僕が長年研究した結論として、ユダヤ人というのは高級奴隷なんです。上にいるのが、古代遊牧民ヒクソスの流れを汲む人たち(中略)この人たちは家畜を管理する。要するに遊牧民ですから、人間も家畜として管理する。そしてエジプトを出たときに連れていった奴隷たちが古代ユダヤ民族(中略)それがパストラル、いわゆる家畜的人民統治の原型(中略)ほかのユダヤ人じゃない人間は家畜で、家畜はだましても殺しても何してもいい(中略)ヒクソスはエジプトを離れて、元々いた中近東へと戻っていきます。その時に一緒に連れていったのが「元祖ヘブライ人」 、つまり、民俗学的な意味のユダヤ人(古代ユダヤ民族)であったと言われています。その後、中央アジアのハザール民族を家畜にした。それが今のユダヤ人。9割のユダヤ人は、3500年あったユダヤという国と一切何の縁もない(中略)つまり今時の金融ユダヤは、正当なユダヤを僭称(地位を偽る行為)している


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?