見出し画像

幸福感は、一生懸命の中にあります。

悟りは「差取り」です。

世俗の僧侶たち そういう境地に達することがサバイバルの鍵である。

死と対峙したことのある人なら私が何を言っているかが正確にわかると思うが、たぶん死の不可逆性ゆえに、われわれの思いが、とてつもなく大きい人間の心の世界に鋭く集中するからだろう。しかし、人にこの問題をわかってもらうために、死を取り上げることはないだろう。われわれが、その崇高さと強さに対する敬意を払いながら───そしてほとんど矛盾するが、その脆さに対する優しさをもちつつ───そして人間の心に取り組むには、生で十分である。

陸軍士官学校教育訓練部長のハスキンズ大佐は、「時にエラーを犯すのがクールなことなんだと考えさせなければいけない。つまり事なかれ主義の安全策をとってはならないと覚え込ませなければならない」と言う。

幸福感は、一生懸命の中にあります。あとから振り返ると、「疲れたけど、楽しかった」と思うことができます。

快感はつきつめれば、内耳の平衡感覚に行きつく(中略)喜びの感覚に関わる脳領域である大脳辺縁系に内耳が直接つながっている(中略)平衡器官をからかう以上の快感はない。そして、ひとたびその感覚を味わったら、何度でも繰り返したくてたまらなくなるのだ↓

ここから得られる教訓は、他人が自分よりうまくやっているのを見たら、そのまねをせよということだ。

お釈迦さんは生命に目的はないと言っており、それは突然変異には(つまり進化には)目的性や方向性はなくてランダムだ、という現代科学の知見と一致しているのである、というわけ。でも、そうじゃない(中略)突然変異は無目的だけれど、だからってぼくたちまで無目的であるべきだってことにはならない。突然変異の無目的は、確かにいまの人間ごときが考えつくこともできない異様な探求を可能にし、いまの生命界の多様性を作り出したけれど、それは一方で想像を絶する無駄を伴うプロセスだった。それも好きで無駄をしてたわけじゃなくて、他に手口がなかったから仕方なかっただけだ(中略)宮崎哲弥は、仏教的な見地からして人の生に意味はないのでありすべての死は犬死にだ、と議論していた───自由は進化する 解説 山形浩生氏

お坊さんたちは別に死後のことについて特に問題にしていませんし、こだわってもいません。「死ねばわかるんじゃないか」と言う人も多い。

「悟り」はもともとの仏教にはなかった概念(中略)四聖諦も当て字(中略)四聖諦の〈諦〉に相当するサンスクリット語はサティヤであり、サティヤの日本語訳は「真理」で「諦める」という意味はどこにもない(中略)真理とは西洋では神のことを指しますから「悟り」とは神の光が見えたことを言います。これはさきほどの降魔成道(※道教の概念であり釈迦が否定したバラモン教の教理)と同じですし、広辞苑の「悟り」の意味(中略)成道=道を成す。タオ(道)の言葉(中略)道を成すというのは道教における真理を掴むこと(中略)大乗仏教のほうは釈迦の悟りを「空(くう)」で説明(※空の概念完成させたナーガールジュナとツォンカパ。上座部は悟りを縁起で説明)(中略)空観とは(中略)その死は別のなにかに必ず受け継がれる。つまり滅することもなければ生じることもない(中略)この幻の存在に、仮の役割を持たせるのが「仮観」です。この仮観を人でいえば、自分に振られた役割を果たすということ(※カースト制度に甘んじるカースト制度肯定は空観の否定であり元の木阿弥)(中略)そこで続いて、必要になってくるのが中観(※フレキシブルな状態)です。中観とは中庸のことであり、空観と仮観をバランス良く維持することをいいます(中略)宇宙は、bottomは『矛盾』で閉じ、topは『空』で閉じている包摂半順序 lattice(中略)「空」は、「縁起」とは異なる別の概念です。※引用者加筆.

権力は私たちの誠実さを低下させると同時に、嘘をつく技能を向上させる↓



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?