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心の定点観測-午後の大岡越前と蕎麦と桃源郷

時が止まったショーワの蕎麦屋

今日、蕎麦屋を見つけた。

地下の階段を降りたすぐ横に何の飾りもない引き戸がある。にぎわいを感じない。だが灯りがついていて、店名が書いてある。確かにここだ。一応営業はしているらしい。

扉を開けて中に入る。客はいない。

カウンター席にうながされる。カウンターの奥に置かれたテレビでは大岡越前が流れている。

店はおかみらしき人が独りで切り盛りしているようだ。お昼のそば定食を頼む。

ざるそばとかやくご飯、そして小鉢が2品ほどつく。雑めのキャベツの千切り、切り干し大根が、とんとんと、盆に置かれる。

マンパワーが足りなさそうに見える割に蕎麦は意外と早く出てきた。麺が不揃いなので、店で作っているのだろう。案外悪くない。

おかみらしき女性は、テレビのチャンネルを変え、昼ドラらしきものを見始めた。

けたたましい目覚ましで起こされる女性。ドラマの中のコメディにおかみはクスクス笑う。いい客だ。

そして、この番組は・・・シングルマザーのベテランバスガイド・・・『湯けむりバスツアー 桜庭さやかの事件簿』だな。

ずっと見ていたかったが、食事が終わってしまった。店を出る。

勘定をしようとすると、その辺に釣り銭が置いてあるから適当に持って行けといわれた。

また来ようと思ったが、果たして辿り着けるだろうか。
大体こういう店はもう一度行こうと思うと見つからない蜃気楼のような存在なのだ。

自分を見つめなおす定点観測

地下にある食堂で、どうという事のない定食を食べる。学生の頃、社会人というものはそういうものだろうと想像していた。実際に社会に出てみると、場所にもよるがビジネス街で食べるランチはなんか小綺麗な店か、さもなくば高度に効率化され、合理化された近代店舗だ。昭和のにおいがムンムンする店はめっきり見かけなくなった。

シャレオツな店で、洗練されたランチを食うのもいいだろう。JPYのマイニングにいそしんで食う高い飯もうまい。だけど、自分はかつて自分が何かを思ったような店や場所にたびたび立ち戻りたいと思う。それが仮にまったく知らない場所であったとしても、時が止まったような雰囲気をまとった場所には、自分を振り返らせるような力が宿っているように感じる時がある。

社会に出て一応自分で食うようになって何年も経つが、自分もはるばるやってきたなあという謎の実感を得られるシチュエーションみたいなものは、案外その辺に転がっているものではないと思う。人によっては、ラグジュアリーな空間で、贅沢な時間を過ごす時に、自分がたどってきた道筋、要するに達成感のようなものを感じるらしい。自分はそうではなく、カウンター奥の大岡越前のようなものにそのきっかけがある。

思うにこれは、かつて自分が見たことのある風景や体験した事のある場所に、歳月を経た自分がいるという画にポイントがあるのだろう。自分を定点観測するのは難しい。街や場所も移り変わる。十数年単位で定点であり続ける場所を探すのも難しい。自分が歩んできた道のりを振り返ろうとした場合、自分は心の定点のようなものを必要とするのだろうと思う。

贅沢を追い求めたり、常に上を目指す系の人のことはあまりよくわからないところがあるが、想像するに、そういった人たちが見ている画には、自分が存在する周りの環境が変わっていく様子が映されているのだろう。それはそれでひとつの価値の測りかただ。

人には、変わっていきたい・・・ポジティブに言えば成長したいみたいな・・・という部分と、変わらないでいたいという部分が共存しているように思う。自分は、かつては身の回りにうようよ存在していた陸ロッカー・・・二言目には社会のひずみを憂うような連中だ・・・が転向し、立派にサラリーマン化していく様を数多く目の当たりにし、「ああはなるまい」と思った。

その結果、振り替えると「変わらないこと」に重きを置いて歩んできたように思う。ちなみに、今でも、大人たちに褒められるようなバカにはなりたくないと思っている。この半ば執着のようなものが何なのかは自分でもよくわからない。

ポジティブな変化は歓迎だとしても、誰しも自分を見失うことへの恐怖心は多少なりともあるものだ。「昇進して、あいつは変わった」は完全に定番の悪口だ。しかし、チャンスっぽく見えるものが目の前にぶら下がった時、その誘惑の力は大変強い。少しでも隙を見せれば欲望は我々を虜にし、あっという間にかつて自分だったものをどこかへ連れ去ってしまう。その結果、あとに残されるのは、コマーシャリズムに毒された、量産型消費者の姿だ。

その先には、狡猾な資本主義めいた心無いアトラクションが一刻の休息も与えまいと次々待ち受けていて、鋼の精神力など到底持ち合わせない我々小市民は、一瞬で無力化され、いとも容易くさまよう消費主義者にされてしまうに違いないのである。

まあ、なんとなく大げさなような気もしないでもないが、自分はなぜかそれが怖い。人々を消費へと駆り立てる邪悪な試みのほとんどが、実はまっとうな企業努力に過ぎないという事がなお怖ろしい。

現代社会で自分の価値観を保って暮らし続けるのは難しい。抵抗したって特にいいことはないのかもしれない。それでも自分は、心の定点のようなものを探しながら、変わっていく自分と、変わらない自分を確認しつつ暮らしていきたいと思う。

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