見出し画像

久々に見た映画

この間、映画『ウィッシュ』を見てきました。まあ流行りからは、ちょっと遅れているのはいつものこと。記憶が曖昧なネタバレも入りますので、読まれる方はお気を付けて。

物語の内容も面白かったし、見せ方も綺麗だし、やっぱり感動するいい作品だなあという思いです。そんなストーリー全体もさることながら、今回の敵であるマグニフィコ王がめちゃくちゃいい。登場から福山雅治全開なんですが、それでも入り込めて楽しい。
ディズニー映画といえば音楽だけれど、今回福山雅治が歌っている「無礼者たちへ」もめちゃくちゃ好きだった。ラップ調だからかな。

マグニフィコ国王は、国中の願いを集める王様なんです。民衆は20歳になると心の中にある綺麗な願いを国王に差し出します。国王は、綺麗な願いの玉を民衆の胸の中からスゥーっと取り出して、城で安全に保管しておくわけです。願いを取り出された民衆は、自分の願っていたことはなんだったのか完全に忘れてしまいます。

月に1度1人ずつ、その願いの中から選ばれたものが国王の魔法によって民衆の目の前で叶えられます。民衆たちは、次は自分の番か、次は自分ではないかと期待に胸膨らませるわけです。主人公アーシャもおじいさんが100歳の誕生日を迎えるとあり、今回こそおじいさんの願いが叶えてもらえるのではないかと強く思うわけですね。
ここから物語がどんどん展開していく、そんな感じです。

で、やっぱり主人公と敵が利害を巡って戦う構図になっていくわけです。
王としては、「国に反乱を脅かすような願いは叶えられない」が根本にあるわけです。願いの中でも「最高の理容師になりたい!」みたいな、国王が「この願いは叶えても大丈夫だろう、国に危害はないだろう」と判断したものだけが叶えられていきます。
アーシャのおじいさんの願いは、歌を歌って夢や希望を若者に与えたい、みたいなものだったので「それが反乱につながったらどうするんだ」と国王が判断し、結局国王から叶えられることが一生ないわけです。この国王の在り方がおかしいと感じたアーシャが、民主の願いを取り返す戦いをしていくわけです。


そんなアーシャと国王が言い争う中で、国王から出てきた言葉。

願い事は単なる考えだと思われがちですが、そうではなく、願い事は心の一部なのです。まさに最高の部分です。

映画「ウィッシュ」

ここが、映画館で「はぁ、なるほどなあ」となったところ。
「願い」って聞くと、どうしてもコルトハーヘンのリフレクションの氷山モデルが浮かんでしまう。映画館でもそれは同じ。その氷山モデルによると、リフレクションの最下層、根っこの部分には「自分が何を願っているか」まさに最高の部分が潜在化しているわけです。

民衆は、そんな自分の大事にしたいことを「単なる考え」だと思っているから、国王に気軽に差し出し、国王に他力で叶えてもらおうとする。「最高」の部分を人に委ねてしまうわけですね。それから国王以外の誰にも見せることなく、こっそりと隠し、みんな人の願いは知らずに過ごしている。

こういうことが学級の中でも起こっているなじゃないだろうかって、無理にでも寄せて考えてしまうわけです。
自分の学級への願いを誰かがもってる方法だけで叶えようとしていないか。コミュニティに所属しているだけで、その願いが叶うような錯覚を起こしていないか。
そもそもその願いを担任は子どもたちにどれくらい願いだと語っているんだろうか。もっと言えば、自己の教師像とか学級のゴールイメージみたいなものに願いをきちんと持てているんだろうか。日々をなんとなく過ごしていて、そんな願いはもうどこかに置いて、実は毎日を消化試合にしていないか。

願うって、願おうと思うから願うのではなく、生まれるものなのかもしれんなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?