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学びのオスグッド

バスケやったてたときに、自分にはなんだかよく分からないけど、みんながしんどそうだったのがオスグッドでした。いい男みたいな言葉ですが、ただただ膝の激痛らしいです。ザムストの黒いサポーターみんな巻いてたなあ。自分にはこなかったなあ。

成長痛の一種なんですよね。
ほんの少しだけ調べてみると、身体における成長痛は、成長するスピードの早さに身体機能が追いつかなくなり炎症や剥離が起こってしまうことによる痛みのようです。そりゃあ痛いわ。

ただ人間として、この成長するにあたって痛みを伴うっていうのが面白いなと思っていて、というか正確にはこの「成長痛」という言葉が面白いと思っていて、これ、大人の学びでもあることなんじゃないかなと感じています。

無知な状態だけど一歩踏み出して発言してみるとか、書籍で得た知見を実際にドキドキしながら現場で挑戦してみるとか、全く知らなかったサークルやセミナーといった学びの渦に飛び込むこととか。
そのもう少し手前の段階にある、書籍をじっくりと読み深めるとか、学びのために身銭を切るとか、必要な努力に時間をかけるということ自体が痛みとも考えられます。

こうした大人の学びにおける「成長痛」は、人によって受け止めやすい人そうでない人もいますが、自分の中でさえ適切に受け止められるときと、そうでないときがあるのではないでしょうか。

自分が学びたいことや、成長欲求(≠承認欲求)を充足させたいと思っているとき、新年度とかノートの1ページ目みたいなやる気がバチんと入るときは、それをあまり痛みと捉えずに楽しみながら突き進んでいっている感じがします。

ただ、正直他にもやらなくちゃいけないことがあるとか、やらなきゃいけないことはあるけれど面倒でやる気にならないとか、やらなくても誰にも迷惑がかからないみたいな、気持ちが生まれることもあるよなあとも思うわけです。

痛みなくして成長なしなのか、それとも痛むくらいの成長ならしないほうがいいのか、痛まないままできる範囲で伸びていくのか、そもそも努力不要論なのか、様々な考え方があっていいと思いますが、教師の「研究と修養に励む」っていう言葉を考えると、痛みはともかくとして、それ相応の努力は必要なんじゃないのかなと考えたところでした。

今日も適度な痛みを抱えながら、過ごしていきます。

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