手段の目的化の話
手段の目的化ってGoogleで調べてみると、
と出てくる。
学校にも往々にして手段が目的化することはあると感じている。
一人一人が学びやすくなるはずの各校独自の〇〇スタンダードが、スタンダードに合わせることが目的になってしまっていることで学びにくさに繋がってしまうとか。
タブレット端末を活用することによって、学習の自己選択の幅を広げることが目的であったのに、タブレット端末活用がマストになってしまっていて、結果的には学習の幅が固定されてしまうこととか。
で、じゃあ手段が目的化することが、悪なのかって捉えると、必ずしもそうとは言えない状況が大部分であるのではないかなと考えています。むしろ、まずは手段の目的化を大いに歓迎してもいいのではないかと感じています。
どういうことかというと、ややこしくなりますが、手段を目的化することをまずは目的としていればいいのではないかと。
例えば、これはやってみないと分からないこととか、ある程度想像はつくし分かってはいるけれどやる過程で気付くことも大事にしたい、みたいなことがある時に必要な手順な気もしています。
例えばさっきの例で言っても
一人一人が学びやすくなるはずの学校独自の〇〇スタンダードを実行していく。
でも、〇〇スタンダードの良し悪しは、やってみないと判断できない部分、想定できない部分がある。
だからこそ、とりあえずスタンダードに準拠することを目的としてやってみて、その中でまた改善に取り組んでいく。
結果、一人一人の学びやすさとスタンダードの兼ね合いについて学校で話し合っていくことができる。みたいなことです。
これを「いや、そのスタンダードなんて、あっても仕方ないでしょ!」って人は、もちろんそう感じられる部分があるのかもしれないけれど、個人的感覚にしか依拠していないわけです。
その感覚があなたの中では100%正しいかもしれないけれど、組織の中で、またその学校の子どもたちにとってより良いかは検討の余地が十分にあります。
いつまでもいつまでも、見直しのサイクルが始まらず、ただダラダラと続いてしまっていることに対しては、悪しき手段の目的化としてもいいですが、学校の中で手段が目的化していると感じた時に本当に必要なのは「なぜ手段が目的化してしまっているんだろうか」「じゃあ、次のアクションってどこにあるんだろうか」と問い直すことなんじゃないかなと。
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