間違いを認めるということ

もう10年以上も前の話になってしまうが。

以前、友人とともに、東北の山深くにあるという、某神社を目指して旅をしたことがある。
そこはグーグルマップですら載っていない神社で、ウワサや文献をもとに、おおよその場所を予測するしかなかった。

時間はあるがお金がなかった時だから、青春18切符を使った貧乏旅行。電車に乗り遅れたりお腹を壊したり。山あり谷ありのドタバタ道中、リアル弥次喜多状態で、ああでもないこうでもないとワイワイ言いながら、目標を目指しレンタカーを走らせていた。

既に時間は午後過ぎ。山あいの険しい道は、夕方になったら真っ暗になってしまう。早く目的地の神社にたどり着かなければ。私達は焦っていた。

目星をつけていた林道入り口に到達すると、それは、ひ弱なコンパクトカーが入れるような、キレイな舗装道路ではなかった。道幅は細く、岩がゴロゴロ落ちているような厳しい路面。私達は徒歩で入ることにした。

私は、どちらかというと本能と直感で生きているようなところがあって、今回も大丈夫、絶対にたどり着けるという確信があった。だがこの旅行は、道中で何度も私のこの「根拠の無い自信」が打ち砕かれる出来事を体験していた。そしてトドメがこれだった。

さて、この林道。歩けども歩けども、目的の神社に辿りつけない。それどころか、ますます寂しくあらぬ方向に向かうような勢いだ。山の遠くでは地鳴りがして、たまに太鼓のような音がする。落石の音かも知れない。空は雲が重く垂れ込め、暗くなっていく。

おかしい、一本道のはずなのに…と思ったその時。
なんと。目の前で道が2つに別れたのだ。

「どうする?わにのん?」

友人は訊いた。私は少し目をつぶり、頭を真っ白にして、野生のカンにまかせてみる。しばらく考え…直感を巡らせて言った。

「こっちだ!」

もくもくと歩く二人。後で知ったことだが、確かにその場所は、目指していた神社に近かった。方角もあっている。
そしてゴールのはずの場にたどり着く。しかし何もない。道は続く。

ここまで30分は歩いただろうか。
私はあそこまで確信を持ち、指示した手前、その責任の重さに震えていた。このままだといけない、認めないといけない、自分の間違いを…。私はいい、しかしこのままだと友人まで巻き込んでしまう。それだけは避けなくてはならない。

時計を見る。5時を指していた、すでに出発して50分は経過していた。
携帯を見る。当然圏外だ。

ハイペースで歩く友人がいきなり振り返る。「違うかも知れない」

私はそろそろ友人の首根っこをひっつかまえる気持ちでいたので、ホッと息をついた。確かに時間がかかりすぎる。このままだと帰れなくなる。

10分くらい更に歩き、林道がますます獣道状態になっていくのを確認し、ここであきらめて引き返すことになった。

帰りはさくさくと進み、空も明るくなってきた。

目的の神社には行けなかったが、これで良かった。
私たちは引き返す勇気を試されたのかもな。

負け惜しみかもしれないけど、そうやって言いつつ林道出口あと少しにたどり着く。その時、雲の割れ間から夕陽がすっとさしてきて、剥き出しの岩壁を金色に照らす。その美しさに、二人ともうっとりとして、しばし佇んでいた。

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それから二人はどうなったかというと、実はその後、奇跡的に目指す神社にたどり着き、めでたしめでたしと相成ったわけだけど。

あれから10年余、ふと、あの時の金色の岩壁や、もくもく歩く友人の後ろ姿、迷った時の気持ちを思い出す時がある。

人間は、完璧じゃない。間違いもあれば失敗もする。だからこそ「まず自分を疑い」「失敗や間違いを認める勇気」が必要になる時があるんじゃないかと。

そして、それが出来て初めて、人間てのは成長できるんじゃないかと。

いまでもしみじみ思うんです。


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