心の不発弾の扱い方(待機児童問題に寄せて)

■怒りの連鎖

保育園の待機児童問題について、保育園に落ちたという母親の罵倒。

まず匿名ではてなダイアリーに投稿され、その過激な内容ゆえにネットで炎上し、続いてそれを国会答弁で取り上げられ、国会前デモのネタにまでなりました。

あの文言・ブログ内容について、
批判する側は

言葉が乱暴だから良くない
母親だから言うべきではない

その反論として、

怒ってはいけないのか
怒る声こそが社会を動かすのではないのか
乱暴な言葉だからこそ人の心を動かすのだ

などと言われています

私は該当の言葉を、ここでは記しません。

言霊を重んじる日本人の一員たる私にとって、あれは破壊衝動そのものを表す強烈なもの。連呼すればするほど、自分にも周囲にも、非常に悪い影響しか与えないと考えるからです。

批判側の「乱暴だから良くない」ですが
これはうまく核心をついていない言葉です。

何故乱暴なのはいけないのか?
その理由に言及できていない。

この問題ですが、
これは各自が、日本をどう考えているかという事に集約されるでしょう

日本とは一体何か?
そもそも日本を構成しているのは、一体誰なのか?

日本は抽象名称だから、特定のものは指し示さないから無問題 という意見もネット上で読みました。

ではこれを、他の国名にしてみましょう。
それでも平気ですか?
その国に住むの人がどう思うだろうか…とは考えられませんか?

国家の社会を構成している最小単位、それは国民です。

あの言葉を聞いて眉をひそめた日本人は多かったはずです。
それは潜在的に自分に言われたように感じたからでしょう。

と同時に、

あの「母親」は、日本国籍を有する日本人ならば、自分自身にも、そして守るべきはずの子供に対してもあの言葉をぶつけたと同じことです。

天に唾すると、自分の顔面に落ちてきます。

自分は社会の一員であるという自覚があるならば、自分を支えている社会構造とその国家に対して、公的な場で、破壊的な言葉を使うわけがありません。

ただの破壊者(アナーキスト)であるならともかく、社会の一員として努めを全うし、次世代の国民を育てるという崇高な意思を持つ人間が、感情のままに破壊衝動を連呼し続けることに対して、そしてそれが大きく広まった事にたいして、恥とは思わないのでしょうか。

一瞬の感情の吐露までを責めるのではありません。しかしその後、己を振り返ることも反省することもなく、悪びれもせずに主張し続ける姿勢には、強い疑問を抱かざるをえない。

私が雇用主なら、このような人材は不採用にします。
それは女性だからでも、子供を持つ母親だからでもありません。
公的倫理を持たない、社会人として不適切極まりない人物だからです。

もっと言えば、この待機児童問題は今に始まったことではない。
いざ自分が該当者になり、それに直面したから怒っているだけで、過去の振り返りも未来への課題も、この罵倒には何もありません。
ゲームが上手く出来ないからと言って、目の前のゲーム機を壊す子供の理屈です。
一瞬の怒りで出したものなら百歩譲ります。
しかし、それを恥ずかしいと思わないのは大人として如何なものでしょうか?


■心の不発弾にどう向き合うべきなのか

世の不条理に対して、怒りと不満を抱え、それを上手く処理できなくてくすぶっている人は、いま本当に多い。

私はそれを、心の不発弾と考えています。

日本人は怒りをコントロールすることが本当に苦手な民族です。
臭いものに蓋をして、核心に触れたがらない。
それは島国に住むものとして、自然に身についたものなのかもしれません。狭い場所で攻撃性を無闇矢鱈にむき出せば、すぐに争いが起こり、秩序が乱れます。何度も繰り返された悲劇の中で、なるべく最悪を回避すべく身についた知恵ともいえるでしょう。
だがそれは、根源が解決されない限り、ただの抑圧であり、その怒りが強く大きいほど、心にとっては非常なストレスです。

「では、この怒りはどうすればいいのか」

怒りは確かに物事を改革する時の原動力ともなり得ます。
うまく制御さえできれば、大変有用なパワーソースとなります。
ただ、その威力が大きすぎるのです。
破壊衝動ばかりでは上手く使いこなすことは出来ないでしょう。

さて
不発弾や地雷を処理する時のことを、皆さんは御存知でしょうか?

付近の住民に警告を出して避難させ、安全な場所で、特殊訓練を積んだ人間が注意深く処理します。

それと同じことが、心の不発弾にも言えると思います

怒りの後ろにあるものは、実は世の不条理そのものではなく、個人的体験や感情にひも付けされていることがほとんどです

本当の理由を見ようともせず、世の不条理に変換している以上、結局は根本的な解決には至らないのです

今回の件であの破壊衝動に同調した人は、できれば個別的に心理カウンセリングを受け、自分の中にたまった怒りをうまく開放させたほうがよろしいかと思います。

怒ってもいいのです。しかし安全な場所で、的確に処理すべきです。

専門のカウンセラーに、あなたの怒りをうまく処置してもらいましょう。

それが解決への一番の近道です。

自分が変わらないと、現状は決して変わらないと知って下さい。


■社会への影響

私があの罵倒ブログに強い懸念を抱いたのは、あの文言は人々の心の不発弾を刺激し、連鎖することを狙っているものではないかと思ったからです。

ブログの真偽を問うつもりはありません。

ただ、あの存在がそういう特性を持つものであり、だからこそマスコミが飛びつき、一部勢力が政治利用した流れは、紛れも無い事実です。

誰もが破壊衝動を持て余しているいま、あの強い言葉は何よりも快感を呼び起こします。

怒りたいのに怒れない。その不満をダイレクトに表すものに対して、よくぞ言ってくれたとスカッとした人もいるでしょう。

しかしそういうむき出しの怒りが、歴史上の動乱でいかに上手く利用され、その果てに社会全体へのダメージと疲弊、数多くの悲劇と混乱を生んだかということを、もっと冷静に考えるべきです。

革命と名のついたもので、平和と安寧をもたらしたものはひとつもありません。
破壊目的の革命の末路は、扇動者もそれに乗った者たちも、破壊衝動に飲み込まれて破滅するのみ。
荒れ果てた社会の後始末をするのは、悲劇の中で巻き込まれつつも、やっと生き残った者たちです。

朝日新聞の記者がこのように述べています

https://twitter.com/tanutinn/status/707850828346884096

これは自ら、あの言葉の威力を認めていると暴露しているようなものです。

こんな人間にうまく利用されるより、まずは自分の怒りをうまく処理し、自分と家族と周囲の大切な人達を守りましょう。

そしてそのうえで、よりよい社会を目指すためにはいかに動くべきかを考えなおすべきでしょう。

国会前の母親がいかに訴えても、いま現実、目の前の子どもたちはどんどん成長しているのです。

それを忘れてはなりません。

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