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女性藝能者とオーセンティシティ

先ほどまで浅草公会堂で立川談春「廓噺の会」を。文字どおり談春が廓にちなんだ噺をする会だが、助演を務めた弟子のこはると立川流同門の雲水が掛けたネタは廓噺ではなかった。

こはるは、『錦明竹』。道具七品の言い立てが心地よい。相変わらず少年のような風貌で、マクラでも「女性だと言うと驚かれる」と自虐的に語るが、そのさっぱりした口跡は男女という枠を越え、談春一番弟子としての風格を具えつつある。師匠談春も、こはるのマクラを受け、「もうちょっと知られた存在になってるかと思えば、そうでもない」といまだ女性であることがネタになってしまう状況に触れつつも、入門12年目となるこの愛弟子にそろそろ「次のステップ」――つまりは真打ち昇進を考えてやらねば、と口にした。

伝統芸能には、常に「オーセンティシティ」がつきまとう。真正性、正統性などと訳される。あるいは、ホンモノ。

談志の生前、落語協会を脱会した立川流にとって、真打ちのオーセンティシティは、「談志が認めた」という一点において保証されていた。客観的基準を設けてもいたが、同時に、「売れてしまえばいい」とも談志は言っており、やはりその判断がすべてだった。

落協や芸協では、ほぼ年功序列で真打ちが誕生する。それは寄席の香盤体系と連動しており、ギルドとしても、芸の伝承としても、合理的ではある。では、寄席を持たぬ立川流にとって、談志亡きあと、真打ちのオーセンティシティは何をもってして裏づけられるのか?

最も過酷な修業環境といってよい談春一門からの真打ち誕生は、その一つの回答となるだろう。しかもそれが、立川流初の女流真打ち誕生となる意味はけっして小さくはないはずだ。

とかくオーセンティシティの扱いは厄介である。

以前、皇室撤廃を訴えるアナーキスト気どりの官能小説家が、ウェブ日記で某家系ラーメン屋にケチをつけながら、その内容が、味や接客ではなく、「正統なのれん分けの店ではない」ことへの異議なのには笑ってしまった。結局、皆、「正統性」に弱いのだ。「ボン・ジョヴィはハードロックか否か」をめぐって殴り合いに発展した中学の同級生たち。いまだってそうだ。「○○はジャズか否か」「○○はSFか否か」そういった侃々諤々は、あらゆる場所で散見されうる。

客商売なら単純である。談志の言うとおり、「売れてしまえばいい」。そのことが、ジャンルに伝わる技術が現在にも届いている証左となる。たとえば歌舞伎や落語であれば、襲名や昇進によってたとえ実力以上のオーセンティシティが付与されたとしても、客に蹴られてしまえばそれまでだ。

裏を返せば、エンタテインメント(客商売)としての自立性を欠くジャンルほど、「正統な伝承者」というオーセンティシティへの依存度は高まらざるをえないだろう。

談春の会の前日、セルリアンタワー能楽堂で開催された狂言和泉流の「和泉会」に誘われた。宗家継承騒動を起こした和泉元彌が、能楽協会から退会処分となり、早15年。商標登録という無理筋に出た「二十世宗家」の商標権もすでに消滅している。他流との関わりも断たれたままだ。

2017年、和泉会の風景ははたしてどのようなものか。野次馬的興味がなかったといえば嘘になる。しかし、結論から述べるなら、これが驚くほど新鮮なものだった。

カギは女性狂言師たちの存在にある。

最初の曲は『福の神』。まず出てきたのが元彌の長女・采明と、元彌の姉である和泉淳子の長女・慶子。ともに中学生だ。まだ芸を云々する段階ではないが、溌剌と弾けるものがある。後の曲で登場した元彌の長男・元聖のガチガチな固さとは、見事なまでに対照的だった。

続く史上初の女性狂言師である和泉淳子とその妹、三宅藤九郎による『昆布売』に、さらに瞠目させられた。

道中疲れた大名(淳子)は、通りがかりの昆布売り(藤九郎)を言いくるめ、太刀を持たせる。が、大名の傍若無人ぶりに怒った昆布売りは、その太刀で逆襲。様々な口上で大名に昆布を売らせるのであった――。

狂言らしい社会風刺溢れる曲だ。謡い節、浄瑠璃節、踊り節の口上には職業パロディの側面もある。つくられた当初は、武士階級を茶化すところにもポイントが置かれていたのだろう。淳子と藤九郎の醸し出す大らかで乾いた空気は、そうした曲に潜在する記憶のさらに奥底にある男性的なプライドをも優しく炙り出し、曲の持つユーモラスな批評性をより尖らせていた。

女性だから、ではない。重要なのは、見た目の写実を越えた虚構性の強度である。虚構なのにリアルであること。物真似から振る舞いを抽出し、演じること。ほぼ近代ドラマに接近した会話劇でもある狂言は、誰もが「ある役割を演じる」という近代社会の実相を先取りしていた。武士もまた私たち庶民と変わらない人間であるし、太郎冠者はすべてを見越した上でバカをする賢者なのかもしれない。いや、男女問わず狂言を演じるとなれば、さらに見えてくる重層性だってあるにちがいないのだ。

17年前、和泉淳子の能楽協会への入会時に一悶着あった。が、「シテ方にはすでに女流が出ているのに、狂言方がダメというのはおかしい」と、中村俊章事務局長(当時)が正論を通したという。パイオニアである津村紀三子が直面で『安宅』の弁慶を演じて以来、三四半世紀。女性のプロ能楽師は増える一方だが、狂言方となると、淳子、藤九郎に続く者はまだいない。

和泉会のチラシやパンフにはいたるところに「宗家」の文字が躍る。経緯を思えば、オーセンティシティへのこだわりは必定だろう。だが、そうした執心を越えたところにある解放感や可能性を、淳子と藤九郎コンビの狂言から受けとったのもまた事実である。

(初出:『文學界』2017年7月号)

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