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220711 実感のなさ

参院選はやっぱり、自民・公明の大勝かぁ…。

まぁ、安倍事件があったのでそういうメンタリティが働くだろうな、とはみんなと同じように思っていた。ただ「弔い合戦」というよりも、逆に「ここは自民に入れとけ」みたいな気分が働いたのかな、と。たぶん、あの事件で初めて「あ、選挙あるのね」と気がついた人もいたんじゃないか。

個人的には、昨日の午後投票に向かう時、投票所の方向から来る人、向かう人がいつもより多いな、と思った。とはいっても「沢山の人が」というのではなく、いつもほとんど人が歩いていない住宅地の道に、わたしの他に数人(<10人)いるぞ、という感じ。今のところに引っ越してから確か3回目の選挙だけれども、これまでは人っ子一人歩いていない住宅地の中の道を歩いて投票所に向かう感じだった。

投票率は多少プッシュアップされてるのかな、とも思ったけど、本来ならもっと人が出てきてもいいはず。つまり、今の日本では「プッシュアップ」でもこの程度なんだな、と、数年前の長蛇の列が話題になった香港の選挙を思い出していた。

圧倒的な違いは、有権者に「実感がない」ってことなんだと思う。

香港で2019年に行われた区議会選挙は、もともと区議会議員の仕事はほとんどが民生処理だから、香港全体の政治ムードには影響をもたらさないとみんなわかっていた。でも、それでも「投票してやる」という意欲があった。まぁ、立候補した人たちもいわゆる「政治シロウト」の初挑戦組が圧倒的に多くて、「参与することに意義があり」が熱風のようになっていたこともある(で、その人たちがどーんと議席を獲得した)。

市民の方はその意志を「示すこと」が「俺たちの権利」だと思っていた。一方で、昨年末に行われた立法会議員選挙の投票所は閑古鳥が鳴いていた。

それは、投票前に、候補者たちの大量逮捕や立候補へのさまざまな足かせ、そして文字通りの体制のお墨付き必須化という操作が行われた結果、そんな選挙に投票という形で参与すること自体が、そうした裏操作を受け入れることになるという判断があったからだ。まぁ、香港の事情は極端に特殊だから、日本のそれとパラレルに語るのは無理があるんだけど、前者の区議会議員選挙では民主派が圧勝して、有権者は「投票した実感」を得た。だから、2020年に予定されていたそもそもの立法会議員選挙の熱気もすごかった。

だがその熱気の凄さにビビった当局によって、意図的に延期が決まり、立候補を予定していた(というか、2020年の時点で立候補を明らかにした)民主派を文字どおり「根こそぎ」逮捕して収監し、その間に操作が加えられ、法律まで変えられた結果、有権者は「非協力」で応じた。

つまり本気で投票率を上げたければ、「実感」て大事なのよ。

でも、今の日本はいろんなものが制度化され、習慣化され、日常化され、お約束化され、あたりまえ化された結果、なにしてもこの「実感」が皆無なんだよね。

わたしも不思議な体験をした。久しぶりに電話が鳴って取ったら、某国会議員の所属する政党からの電話。もちろん、投票へのお誘いなんだけど、まずこちらの名前の確認。「はい」。そして次に相手の所属の説明、「はい」。戦況が大変に厳しいと言われて「はい」。「ぜひともよろしくおねがいします」と言われて「はい」。「それでは失礼いたします」と言われて「はい」。…こっちは「はい」だけしか答えずに電話は切れた。

こんな選挙活動、有効なの? 相手はリストアップされた人に電話しておんなじことをしゃべってるんだろうけど、わざわざ電話しておきながら、相手とまともな会話も交わさずに、なんで相手を動かせるのか? でもそういう手法が「あたりまえ」になっている。それがわたしのいう「実感のなさ」。

正直、自分なりにどんなに頑張っても、制度化され、習慣化され、日常化され、お約束化され、あたりまえ化され、ステレオタイプ化された社会では、なにもつかめない。何をしても実感のない社会で、あれしろ、これしろ、言われたくないな、というのが正直な気持ち。


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