【読んでみました中国本】庶民の共同体験を消し去る政府、書き残す作家:余華「中国では書けない中国の話」

先日、中国からやってきたあるコラムニストの友だちが焼き鳥屋でため息をついた。

「最近はニュースがないよなぁ…」

それを聞いて、彼と一緒にやってきた評論家が言った。

「新聞はもう完全にコントロールされてるからね。見るべき新聞がなくなっちまった」

2人とも、つい3、4年ほど前までは中国ではかなり名を知られたニュースメディアで社説なんかを書いていたレベルの人たちだ。その彼らが今や、中国国内で読むべき新聞がなくなってしまったと嘆いているのである。国内のメディア「砂漠」は海のこちらでわたしが感じている以上に深刻なようだ。

「○○紙はまだましじゃないか?」
「あそこはたまにはいい記事出すけど、でも、やっぱり、たまーに、でしかないな」
「新聞はもう読む気にもならないもんな」
「ニュースはいったいどこにいっちまったんだ?」

2人はタバコの煙をくゆらせるみたいに言葉を口から吐き出して、ふっとその行き先を見つめるかのように宙を見つめた。

そばでわたしはそんな会話を聞きながら、そういえば、と思った。

最近、中国国内の抗議デモの報道をまったく目にしていない。メディアが政府の管理下にあるといえども、わたしが北京にいた2014年くらいまでは、直接中央政府に楯突くようなものはさすがに無理だが地方政府の不正に対する抗議とか、労使関係のいざこざとか、あるいは不正な事業を住民や労働者の利益を無視して展開する企業への抗議とか、「不正の風を正す」デモや抗議の場合は、わりとメディアでも伝えられていた(詳細は拙著「中国メディア戦争」を参照のこと)。

それらは事態の進展状況によってはその後報道禁令が出たりすることはあったが、それでも現場の人間が「これは大事」と思った事件は第一報は必ずどこかのメディアに載り、誰かの目に触れ、人々の口の端に上り、SNSで拡散された。

たとえば、土地の強制収容に対する抗議活動。農地の所有者や利用者が強制的な排除に遭って、文字通り自身の身を呈して土地を守ろうとしたり、自虐的な手段で耳目を集めて告発しようとするような事件は中国では(残念ながら)度々起こってきた。

だが、報道からすっかりそうした「社会矛盾」が、少なくとも目立つページから消えた結果、流れてくるニュースだけで中国を観察すれば、中国の日常はまるで天下泰平で、人々はみな毎日のように消費生活を楽しみ、不動産価格に一喜一憂し、おいしいものを食べ、旅行を楽しみ、中国テックの未来に夢を見ている…そんな幻想に陥ってしまう。

…これはゆゆしき「姿」である。だが、実際にそこで暮らす人たちの目に映らないもの、耳にしないものものに対して、人々は簡単にその存在を感じなくなる。我われが、今アフリカの片隅で起きている大事件について無関心でいられるように。そして、その存在について考えることもないまま日々を過ごすようになる。

だが、それは彼ら自身が暮らす国の一角で起きていることであり、もしかしたら自分の身にも同じような出来事が降り掛かってくるかもしれないのだ。そんな事件を知らされずに日々を過ごしているうちに、人々は今日に続く明日に、いったい何が起こるのか、どんなに考えてもそれを予測することすらできなくなってしまう。だって、そこに存在する「見えない条件」をだれも知らないのだから。

メディア情報の封鎖は人々に事実を知らせないという直接的な問題を生むだけではない。人々が社会について、あるいは未来について、そして当然のことながら経済の行き先について、状況を判断するための能力を奪っているのである。

●うねる中国社会、口にできない思い

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