「源氏物語」と宇多・醍醐朝の人々2 帚木・空蝉・夕顔の巻

第二巻帚木、第三巻空蝉、第四巻夕顔 いわゆる帚木三帖。この三帖が「源氏物語」で一番はじめに書かれ、これが評判になって紫式部が彰子に仕えるようになった、と言われれば、ストンとくる。桐壺の巻には定子・彰子・一条天皇が出てくるが帚木には出てこない。

むしろ、夕顔の巻を見れば宇多・醍醐朝の人たちが出てくる。(一人一条朝時代に亡くなる人たちもいるが)

二 帚木

光源氏が十七歳程度で近衛中将になっているのは出世が非常に早い。頭の中将もやはり二十歳そこそこで近衛中将と蔵人頭を兼ねていて、参議の一歩手前である。これも非常に早い。

ただ、少女小説的スーパーハイスペックな王子様とその友達かというと、源氏物語前の現実にもちゃんといる。宇多・醍醐朝の人・藤原時平や一条朝の人・藤原伊周は十七歳程度で頭の中将になっている。源高明も頭の中将をやっていたら完璧に光源氏にバッドエンドのフラグが立つのだけど、彼は近衛の大将はやっても中将はやってなかった。

帚木で語られるのは、頭の中将との仲の良さ、女の品定め、頭の中将の口から語られる「受領階級の女の良さ」と行方不明になった夕顔・玉鬘母子、そしてたまたま方違えに行ったところで見初めた空蝉を狙いにいく話。

帚木においては、初期ヒロイン格の夕顔の導入と、受領階級出身の紫式部自身が投影されたような女たちの話が出てくる、というだけ。

帚木冒頭が「光源氏」の紹介で、桐壺の巻よりもこの帚木の巻の方が先に書かれた雰囲気が濃厚である。

空蝉の弟の小君に添い寝をさせる(で終わるわけがない)ので、源氏の男色と言われるのだけど、それよりもこの巻の頭で、頭の中将とイチャイチャ一緒にいる方がBL的である。ヤれば良いってもんじゃないんだ、BLは。

参考文献は名前を挙げた人のWiki。

三 空蝉

空蝉を狙う源氏は、空蝉ではなくて継子の軒端荻とヤっちゃう。空蝉に逃げられて、あ、継子か。でもいっか、くらいの勢いで。

随分とひどい男である。これも、「当時は」そういうことは良くあったのだろうなっていう感想を現代人は抱く。

四 夕顔

この巻は、有名な夕顔の死亡事件と姫君(=玉鬘)失踪事件、空蝉の話が続き、とうとうあの人が出てくる。六条御息所!

好色な光源氏といえば、葵の上存命中に、葵の上とはギクシャクしていて、身分の低い夕顔・空蝉(ついでに軒端荻に小君)・六条御息所と並行して遊んでいて、その一人、夕顔が死んじゃうって、あれがここ。

その後、光源氏はビビリにビビって二条院に逃げ帰る。

この有名なエピソードだが、語りたいことがいくつもある。

光源氏と夕顔は具平親王と大顔か。宇多法皇と京極御息所・褒子か

この夕顔と光源氏のモデルは、大顔と具平親王(村上天皇皇子)の関係に似ていて、この具平親王の近くに紫式部の父・為時はいた。この具平親王も「六条」にいた。

具平親王が寵愛した「大顔」という人がいて、具平親王が大顔を連れて嵯峨の遍照寺に連れて行くとそこで大顔が急死してしまう話が「古今著聞集」にあるらしい(ググっても原文が出てこなかったので、今のところは「あるらしい」でおいておいてほしい)

しかし、具平親王没年は1009年=寛弘6年で一条天皇の御代である。もちろんこの大顔事件のことは紫式部本人は父からであれ、噂であれ、親王からであれ聞いていたことだろう。ただ、そのまま使うには生々しい。

この、「六条わたりのなにがしかの院」のモデルとしてもう一つ目されているのが、その名も六条河原院。ここは「出る」所として有名だった。「江談抄」に残っているらしい(ググってもこれも原文が出せなかったので、お茶を濁させてほしい)宇多法皇が京極御息所を連れて河原院(源昇に譲られた)に行くと、元の持ち主の源融(宇多天皇に左大臣として仕えた)が化けて出て御息所が欲しいと言った。見ると御息所は虫の息で、河原院を離れて御息所は息を吹き返す。

ただし、注意が必要なのは、「源氏物語」が一条朝(=平安中期)、「江談抄」は院政期(=平安末期)、「古今著聞集」が鎌倉時代に成立していることである。それぞれ、大ヒット作の源氏物語を元に作られた話の可能性だってある。本稿は論文ではなく、素人がオリジナル作品創作の過程で収集したことを元に書いているので、その点はご海容願いたい。

褒子と「六条」

この褒子という人が曲者である。

「醍醐天皇に入内する予定だったのに、その父宇多法皇に見初められて、「法皇の寵妃」になる。(いいですか、宇多さんはもう出家しています)けれども、陽成院の第一皇子・元良親王と恋愛事件を起こす。」という人。

褒子の父は藤原時平。時平の正室は廉子女王(本康親王の娘)。側室に河原左大臣・源融の孫娘がいて、父は源昇とする説もあれば源湛とする説もある。この融の孫娘が時平との間に産んだがの藤原顕忠。この屋敷が富小路にあるのだが、なんと褒子の住んだ京極の屋敷と同じ町にある。平安時代、異母の男の子と女の子は顔を合わせることもほとんどなく過ごしているのでは?褒子の屋敷の敷地の一部に顕忠がいるならば、この二人は同母の姉と弟、少なくとも一緒に育ったような相手ではないかと思う。

「恋愛事件を起こした若い妻」の見張りに、ほとんど顔を合わせたこともないような異母の弟にさせないだろう。宇多さんは自分の子達に、異母兄(敦慶親王・醍醐天皇の同母弟)と異母妹(均子内親王・中宮温子の娘)の結婚をさせるような人です。当時というか少なくとも宇多さんには現代人的な近親相姦をタブー視する感覚はないのではないかと思う。やはり、同母弟もしくは一緒に育った相手だろう。(なお、この敦慶親王は宇多さんの御息所・伊勢に娘を産ませている。宇多さんの血だ)

この褒子周辺の話を少し遠回りしよう。

宇多さんにとって、「重要な息子」というのはやはり、醍醐天皇の同母弟たちだろう。敦慶親王・敦実親王の二人がいるが、敦実親王の正室に時平の娘を迎えている。この敦実親王の住んでいたのも「六条」。六条河原院は四町もしくは八町あったので、非常に広大で、敦実親王が住んだのが六条河原院を分割した一部だった!?と思ったのだがどうなんだろうか。敦実親王の妻の時平の娘(=褒子の姉妹)が、源融の孫娘所生だったら、所縁の地を新婚の息子夫婦にやったかな、なんて想像するのだ。

少し時代が飛ぶが、この敦実親王と時平の娘の間の息子が鷹司左大臣・源雅信でこの人の娘が道長正室の倫子。その兄弟の源重信が六条大臣と呼ばれているので、敦実親王の住んだ場所だろうか。

こう、褒子の周辺には「六条」にまつわる話が多い。その父の時平も、物の怪中の物の怪どころか神に祀られた菅原道真の祟りで早逝している。

仁善子と六条御息所

さて、「源氏物語」の怪談担当、六条御息所。この後の話だが、源氏は六条院を作るがその元になったのは御息所に譲られた屋敷だ。そのモデルが六条河原院。

この六条御息所、「前坊の御息所」である。「前坊」とは即位しなかった東宮。一条朝の後ならば、小一条院といって即位しなかった東宮がいるが、一条朝の前なら醍醐天皇の太子の保明親王と、その息子で皇太孫・慶頼王の二人がいる。二人とも即位前になくなっている。

これがまた、褒子周辺の人で、保明親王の母は褒子の叔母の穏子。保明親王の妃・慶頼王の母は時平の娘の仁善子(=褒子の姉妹)。仁善子は本院御息所と呼ばれ、皇太孫・慶頼王だけでなく煕子女王を生んでいる。煕子女王は成人して叔父の朱雀天皇の女御になっている。煕子女王は中宮にはならなかったが、朱雀天皇には中宮・皇后になった人はいなく、煕子女王は昌子内親王出産のときに亡くなっている。さらに、昌子内親王は冷泉天皇の中宮になった(和泉式部は一時この人に仕えていたし、内親王が亡くなったのは、和泉式部の夫・橘道貞邸)。

なんとなく、この母女王と娘内親王が六条御息所の娘・秋好中宮を連想する。ちなみに、秋好中宮の夫は冷泉帝(光源氏と藤壺の不義の子)。ね。

私は、この辺りの、褒子の河原院事件が夕顔事件、恋愛事件が六条御息所と光源氏、仁善子と煕子女王と昌子内親王との話をひとまとめにしたのが、六条御息所と秋好中宮に見えてしょうがないのだ。

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