「源氏物語」と宇多・醍醐朝の人々1 桐壺の巻

定期的にやってくる、私の「源氏物語」フィーバー。仕方がない。小学校低学年で東山紀之の「源氏物語」に度肝を抜かれて、頭がクラクラしてしまって、速攻図書館で簡単に書いてある「源氏物語」を読んで夢中になった。小学生低学年の女児にはなかなか刺激的だったが。中学で古文が始まると、読めるのではないか?と原文に体当たりもした。一応、全部「目を通した」ということにしておいていただけると助かる。ただ、おかげさまで大学受験まで古文で苦労はしなかった。大学は国文、に進んだ訳ではない。しかし萩谷朴の「紫式部日記全注釈」などを勉強の合間に読んで大変楽しく大学図書館を活用した。

源氏物語研究は千年もの間日本人がずっとやり続けていて、今更国文畑でもない人が書いてどうする?なのだが、ここは「ノート」。最近、小説の題材にしたくなった人が宇多・醍醐朝の人で、肉付けをするために宇多・醍醐朝の人たちを調べていたのだが、出てくるわ出てくるわ、「源氏物語」みたいな関係性が。もちろん、出典を「大鏡」に取ってしまうと後世の人たちが無理に作っていった話は少なくないので要注意だ。あくまでメモであり、自分の考察の整理をするものである。お楽しみいただければ、幸い。

さて、1回目はもちろん桐壺の巻。全巻やるかどうかはわからない。少なくとも、「源氏須磨まで」と言われる「須磨」くらいはいきたいものだとおもっている。

「桐壺の巻」は第1巻。シリーズ物では一作目がその時系列の一番初めとは限らないのと同様、源氏物語においても時系列で一番初めに来る「桐壺の巻」は一番初めに書かれたと限らない。

桐壺の巻

「桐壺の巻」の全体をかいつまむ。「帝の寵愛を受ける更衣が桐壺の局にいたが、後見人がいないこと。そこに美しい皇子が生まれ、更衣がなくなってしまう。帝は大変嘆き悲しむ。更衣の母も亡くなってしまい、幼い皇子には頼るべき人はいない。皇子は大変聡明で高麗人の人相見が首をひねるほどの人相だった。先帝の四の宮が桐壺にいた更衣によく似ていると聞いて、帝はこの人を藤壺に入れる。幼い皇子は藤壺にいる人が顔も知らない母に似ていると聞いて慕う。美しい皇子を「光るの君」、藤壺にいる人を「輝く日の宮」と呼んだ。帝は優秀な光るの皇子を親王にすると帝位を脅かす者として排斥されかねない。それを憂いて帝は皇子を臣下に下した。元服の加冠役の左大臣の娘を源氏に落とされた光るの君に与えさせ、左大臣を光るの君の後見につけたが、左大臣の姫君とはあまりうまくいかず、光るの君は母の残した邸宅に手を入れる(二条院)。」

この、帝・更衣・皇子・藤壺の四人の関係は、明らかに「桐壺の帝=一条天皇、桐壺の更衣=藤原定子、皇子=敦康親王、藤壺の宮=藤原彰子」(定子と彰子の話はしない)。彰子は定子をどう思っていたのか知らないが、彰子は定子の産んだ敦康親王を、定子没後に引き取る。しかも、なかなかかわいがっていたようだ。

いづれのおんときにか、で始まるが、「更衣」がいたのは村上天皇までであり、一条天皇の時代にはすでにいない。更衣がいた、ということでそれだけで一条朝の人たちにはかなり昔の話だなと思うのであろう。

醍醐天皇の実弟・敦慶親王と光るの君

さて、宇多・醍醐朝にこういう人がいた。藤原胤子といって、宇多天皇が臣下に降っていた時代からの妻である。父・藤原高藤は長生きして内大臣まで上り詰めるのだが、宇多天皇の即位時には参議にもなっていない。宇多天皇には太政大臣・藤原基経が娘の温子を入れて「弘徽殿の女御」にする。温子はあまり宇多天皇の寵愛を受けなかったのか、内親王一人を産むだけだが、胤子は子だくさんだった。その一人を温子が養子にしてそれが醍醐天皇として即位する。胤子は早世してしまうのだが、醍醐天皇以外の遺児は温子が引き取られた。その一人、敦慶親王は「光玉宮」と呼ばれる大変美しく色好みの宮だったらしい。敦慶親王の話はまたする。桐壺の帝=宇多、桐壺の更衣=胤子、光るの君=敦慶親王、藤壺=温子の関係性が出た。

醍醐天皇の異母弟・斉世親王と昌泰の変

もう一人、宇多天皇の即位前からの妻に橘義子という人がいる。この人の父は橘広相。阿衡事件として、宇多天皇と藤原基経が対立する原因になった文章を起草した人である。(この事件は、菅原道真の仲介で基経が矛を収める。)義子も子だくさんで皇子を三人も産む。その一人、斉世親王は菅原道真の娘を妃に迎え、醍醐天皇を譲位させて弟の斉世親王を即位させるつもりではないかという話にして、道真が左遷される(昌泰の変)。

桐壺の帝が光るの皇子について心配したのは、まさに昌泰の変のこと。斉世親王本人にその意図がなくても道真のそばにいた人に担ぎ上げられてしまったのか、藤原時平(温子と、醍醐の妃の穏子の兄)の側にうまく使われてしまったのか。それは別としても、そういう立場に置きたくなかった、というのは一条朝の人なら説明しなくても良くわかったことだろう。

左大臣の北の方(大宮)から左大臣を探る

のちに夕霧を育てる、頭の中将・葵の生母の「大宮」。この人は桐壺の帝の同母妹である。

皇女が降嫁するケースはあまり多くなく、まずは、藤原良房と源潔姫(嵯峨皇女)。次は、藤原忠平と源順子(宇多皇女)。源潔姫も源順子も皇女ではあるが、「源」であるところでわかる通り、臣下に降ってからの結婚である。

それに対して、忠平の子(生母は順子ではない)の師輔は醍醐の「内親王」の勤子内親王・雅子内親王・康子内親王を次々に室にしている。最後の康子内親王は醍醐天皇ののちの朱雀天皇・村上天皇の同母姉。

活躍時期が多少ずれるが宇多・醍醐朝に生きているので、まあ、いいか。

左大臣の穏やかな性格は忠平を連想するが、ポジション的には師輔であろうか。師輔の子に兼家がいて、その子に道長がいる。兼家は康子内親王の子ではないが、左大臣家の人たちは源氏の君に多少コケにされてもそこまで悪し様に描かれない(柏木は女三の宮を奪いにいくし)ところを見ても、「左大臣家は九条流の人たちですよ」ということが推測されよう。

右大臣家は?

右大臣家に関しては、「東宮の生母」くらいにしかまだ情報がないので、ここでは語るまい。

参考にしたのは、それぞれのWiki。

桐壺の巻の原文

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