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ジブリ最新作のプロモーションに無意識の『前提メガネ』を意識させられた話とおまけの話(ネタばれなし)

宮崎駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」の評価が二分化しているネット記事を見かけて妙に納得した。

公開からまだ1週間も経っていない作品。 
公開まで一切情報が明かされず事前の宣伝はしないという稀有な作品である。
 
鈴木プロデューサーの言葉をウィキペディアから引用すると「情報があふれている時代、もしかしたら情報がないことがエンタテインメントになる」との考えとのこと。
 
実際、自分もまんまとそのエンターテインメントに惹き込まれ、
「公開情報が徐々に明るみになる前に」と映画館へ向かってしまった。

 
映画の内容や感想はさておき、
話は冒頭に戻る。
 
ネット記事では「君たちはどう生きるか」の評価としては、
⭐️一つと⭐️五つに分かれているそうな。

ほうほう、と、うなづけた理由に無宣伝の効果をあげてみたい。
 

だいたい映画やドラマなどが宣伝される時というのは、
この映画は「これこれこーゆー映画です」という具合に宣伝されている(気がする)。「これこれこーゆー」というのは、いわゆるその作品の見どころを広告代理店や作り手が特徴づけしてくれているということだ。

かの有名な「全米が泣いた」という言葉も、
「そーか、感動作品なんだな」と匂わせている。

キャッチコピーはその最たるもので、
魔女の宅急便は「おちこんだりもしたけれど、私は元気です。」、
耳をすませばは「好きなひとが、できました」で、
ふんわりと作品の手触り感を感じたりする。
 

たとえ予告編の時間にギュッと詰め込まれない情報があっても、その演出や編集の意図に何かしら映画全体の面影を感じとる。
 
つまり、「これはこのような映画なのです」、と見えない前提を渡されていて、それ越しに鑑賞しているのだろう(意識的であれ、無意識的であれ)。
 

その『前提メガネ』をかけながら、
その文脈のうえで、あぁでもない、こうでもない、と講評したりする(意識的であれ、無意識的であれ)。
 
今回、「君たちはどう生きるか」は宣伝がなかった分、「こーゆー映画です」という差し出しはない。つまりは『前提メガネ』がなかったのである。
 
100メートル走か、42.195キロのマラソンか、予告されないままスタートが合図されちゃった感じ(ちょっと違うか)。


そんなこんなな状態で、いざ評価をしようとした時にちょっとした不安が立ち上がってくる。
どっちつかずの漂った評価をするのは、
 「この作品と自分はきちんと出会えてないのでは?」
 「この作品のメッセージをきちんとつかみきれなかったのでは?」
 「この作品を評価できる目を持っていないのでは?」
などなどの言葉が頭をもたげる。
 
そー、だから、
敢えてでっぱりを作るために、
作品と自分との対話の痕跡を残すために、
極端な評価をして、この映画との出会いを着地させようとしているのではあるまいか。居心地の悪さを抱え続けているのもしんどくて。
 
と思ったり。

今までは『前提メガネ』という一種の枠組みを渡してもらえていたから、その安心の中で、あぁでもない、こうでもない、と言えていたけれど、その枠組みがないと途端に不安定になってしまう。そもそも得体の知れないものに対峙する経験が情報社会で減ってしまったのではあるまいか。モヤモヤした不安はすぐに手放したい症候群、みたいな。(ちょっと飛躍か?)
 

そうそう、それと。。。。 情報が溢れている時代。
だからこそ、徹底的に情報を伏せるという今回のプロモーションはある種の情報になったともいえる。

その情報に刺激を感じていることが、もう一つ。

■おまけ(多様性と重ねると)


今や、SNSでは多くの価値観や個性が飛び交ってる。
そんな時代だからこそか、「多様性(ダイバーシティー)」という言葉を耳にすることがしばしばある。
 
「多様性(ダイバーシティー)」は、もちろん大事でさまざまな個性がいきいきと輝くことは素晴らしい。と思う反面、コトバだけが先行し、「NO差別!YES平等!」のような、どこか平均を目指しているような印象を受けることがある。本当の平等とはなんだろうと考えさせられる。
 
なんだか「多様性」を連呼すればするほど個性に蓋をするような、情報を発信すればするほど嘘っぽく聞こえるような、そんな逆転現象が起きているのでは?
 
映画の内容だけでなく、プローモーション(宣伝)の方法も含めて、
「君たちはどう生きるか」と大きな問いを投げかけられているような気がした。

 自身の中に問いかけるしかない。
もしかしたらそれが次の時代のヒントになるのでは? 

と勝手な考察にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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