見出し画像

晩餐

とにかく幸せすぎたので、忘れないように書き留めることにしました。

両親と3人で夕方5時頃から22時まで、食べたり、飲んだり、しゃべったり、そんな時間だった。
父は毎日、日本酒を飲むし、母もビールや酎ハイを楽しむから、ちょっとこの日は3人とも飲み過ぎたかな?

何も生み出さない、全く刺激的なことのない、その5時間が、翌朝起きると私の心にしみじみと沁みてきた。
生きていてよかったなあ。
この感覚を感じることができて本当によかった。

こんな幸せな感覚があるんだなぁ。

その日は、120キロ離れた東京に住む、両親の家に行く日でした。
最近は、毎週実家へ通っている。

父は4年前肺気腫で、2回ほど入院している。夜中に呼吸が苦しくなったらしく、見兼ねた母が救急車を呼んだ。入院になった。よっぽど苦しかったとみえて、20歳から60年間吸い続けたタバコをやめた。石灰化した肺は元に戻ることは無いから、器官を広げる薬を利用し、減少し続ける体力と付き合いながら過ごしている。いっときは、痩せ細り、青白くなって、私が父の死を覚悟しなければならないほどに、父は弱っていた。
あの頃は、会うたびに「しっかり食べて、元気でいてね。」と声をかけていたと思う。

それから1年後の早朝、いつものように犬の散歩をしている私に、電話がかかってきた。
朝早い電話は胸がざわつく。
母からの電話だった。
「背中が痛くて、今、救急車を呼んだから、病院へ行くね。お父さんをよろしくね。」
ドキドキした。我慢強い母が、自分で救急車を呼ぶなんて、よっぽど痛いに違いない。でも、自分で呼べるんだから大丈夫か?
とにかく、東京へ行かなくちゃ、なんの病気?
おちつけ!落ち着け!
唱えながら、足早に帰宅して簡単に身なりを整えて車に乗った。
運転中も心はザワザワ、ドキドキ。
病院へ着くとヨロヨロと歩く父が病院で待っていた。父も体力が無いから心配だ。
しばらく待たされて、医師に呼ばれる。
母の病気は大動脈解離だった。
動脈が裂けて、血液が体内に漏れ出す病気で激しい痛みを伴い、死に至ることもある病気だった。
幸い、心臓から離れた場所だったので母は生きていた。
2週間入院し、経過を観察することになった。
2週間後退院。体力がすっかり落ちてる、食欲もない。一週間後の受診で、乖離している部分から血液が漏れていることがわかり、再入院を勧められる。
母は断固として断った。
「もう治療もしないし、検診もしない。命の灯火が消えるまで生きればいい。」と
我が母ながら、強くてかっこいい。
そして、この時も母の死を覚悟した。

あれから2年。

母は生きている。
退院後は、痩せて体力も落ちて、歩くのもやっとだった母だけど、少しずつ体力を取り戻し、最近は1時間ぐらい、ゆっくりと歩けるようになっている。
家事も洗濯や簡単な食事を作り、簡単な掃除をしている。

ホントに病気なの?と思う時もある。
だけど、脆くなった血管は強くなることはない。
母のカラダの中は、いつも黄色信号なのだろう。

私は毎週、様子を伺いに実家へ行く。
そして買い物に付き合う。
背中が丸まって、小さくなった母の後ろ姿をみると、涙が出そうになる。

この日もいつもの様に野菜や惣菜を買った。
そして母が言う。
「いろんなノンアルや缶酎ハイが出てて、美味しいって聞いたから、飲み比べてみたい。」
スーパーのお酒売り場で、あれこれとかごに入れる私たち親子。
実家に戻って、早速買った惣菜を並べて、3人で飲んだり、食べたり、しゃべったりしたのだ。
5時間も!
なんの話をしたのか?さっぱり覚えていないけど穏やかな時間が、ただただ過ぎていったんだと思う。

85歳の母と、もうすぐ85歳になる父と、こんな風に時間を共にできることが当たり前ではないし、ずっと続くわけではないと知っているから心に沁みてくるんですね。

感謝でいっぱいです。
ありがとう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?