量産するがいいさ

「特別な人間になりたいと思うことは、特別なことではありません」
慰めのような揶揄のような、旨味のある言葉である。

人と違っていたいというのは、自分の存在意義を確立するために当然の欲求だと思う。
実際のところ、世界や国家が成立するのに不可欠な一個人はいないと思うが、せめて個人間では「他でもないあなたが必要」と言われなくては足元が揺らぐというのが人情である。
多分。

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ところで、似た人間が集まると集団のなかでの個人の個性が薄れる代わりに、集団の個性は強まる気がする。

高校には、学生鞄の底にド派手なペイントを施す人々がいた。
ポスカやラメで鞄に絵を描いたりレタリングしたりして、ペイントを見せるために鞄をリュックのように背負っていた。

流行りはじめのころそういうペイントをするのはごく少数派であり、外野からはちょっと変なやつと見なされていた。
しだいに同じことをする高校生が増え(私の高校には禁止する校則も不文律もなかったのでことさら増えた)、鞄ペインターはそこそこよくいる高校生になった。

多数派になることによって、鞄ペインター個人は以前より没個性的になったわけだが、「世代」という集団は特有の文化を獲得した。

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写っている数十人もの女性全員がふんわり巻いたロングの茶髪で似たような服を着ている、みたいな写真をネットで見たことがある。
量産型女子大生と揶揄されていた。
完全に余計なお節介だと思うが、言い得て妙なので笑ってしまった。

しかし、「テンプレに沿った人ばかりでできた集団」なんてものはけっこう特殊だ。
彼女たちは分散していると没個性的かもしれないが、その集合は個性的に見える。


一方、ファッションで我を出すことを重視する人は、個別に見れば大学での目立ち具合(もしくは悪目立ち具合)は量産型女子大生の比ではないと思う。

しかしそういう人でできた「集団」は、量産型女子大生の集団ほどはっきりした個性を持たないんじゃないだろうか。メンバーに共通するものが少なそうだ。

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もし、個性的な集団に属していることをも自分の個性と言っていいなら、個性の獲得は簡単かもしれない。
量産型女子大生ゆるウェーブ連合でも偏屈アーティストの偏屈ファン集団でも、自分と似た人間を大量に集めてしまえばいい。

ゆるがない自分だけの独自性を演出するなら、「私は凡庸に平均的に没個性的にみんなと同じになりたいんです」と言いながら扇風機の羽でも舐めたらいいと思う。
異常性も個性に含まれる。
多分。


追記:本当は「個性的なアーティストが好きみたいだけどそのアーティストの真似してるなんてあんた没個性じゃん」に対して「個性的なアーティストが好きだからといって個性的になりたい訳じゃないぞ」という旨を書く予定でしたがそれ以上言うことがなかったのでやめました。

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