パンデミック

ある日、出向先の部署に季節外れの追加要員が入ってきた。

この人、見た目は普通の大人しそうな男性で、態度が悪いと言うこともない。
コミュニケーションに過不足なく、まともな善人に見える。
見える、というか、実際にまともな善人であることは確かだ。

新しい要員が増えるというのはいつでもチームメンバーに喜びと若干の不安を与えるものだが、今回はどうやら心配することも無さそうだ。
と、居室の誰もが思っていた。

最初にそれが気になりはじめたのはおそらく私だろうと思う。
丁度その日は音嫌悪の波が最大になっているときだったので、気になるのは自分の脳みそのせいだと考えた。
しかし、気になるものは気になる。

何と言うに、その新顔の男性、すべての動作音が大きいのである。

椅子から立つ時、足を一度上げて振り下ろす反動で立ち上がるらしく、床が毎回「ダッ」と音を立てる。
キーボードを「ッッターン!」と押すので、彼が文章を打っていると大体「ッタダダーッターンッズダダダダタターンッ!」と聞こえる。エンターキーなんかもう力入れすぎて「ズガッッ」みたいな音がする。
マウスが動かないと、机に「ダンダンダンダン」する。
そういう音が聞こえるたび、見たって無駄とわかっていても反射的にそちらを振り返ってしまう。

不思議なことに、その音を除けば、彼は話し方も表情も苛立っているようには全く見えない。常にやってしまう、癖のようなものなのだろうか。

こちらとしては正直めちゃくちゃ気が散る。しかし、小さい音でもすぐ集中が切れるこちらにも問題があるし、癖というのはお互い様なものだ。
そして立場上、私は出向で来ている子会社の人間である。とてもじゃないが、出向先の人の罪なき行動に文句はつけられない。


などと考えて悶々としていたところ、最近おそろしいことになりはじめているのに気がついた。

新顔の男性の両側には、彼の同期と上司が座っている。
だんだん、その二人のタイピング音が大きくなっているのである。

初めは気のせいかと思ったが、私以外の人間もその豪快タイピング地帯をチラチラ見るようになったのでおそらく気のせいではない。

そして、三人とも妙な咳払いをするようになった。喉に何かが絡まっているというよりは、声が出ることを確かめるような咳払いだ。

席の配置上、その三人の立てる音が常に後ろから聞こえている。
なかなか辛いものがある。もはや「誰でもいいから助けてくれ」レベルだ。ノイローゼになりそう。

耐えかねて、思わずエンターキーを「ッダン!」と叩いた。


あっ。

ノイローゼが伝染している。


伝染している。
新顔男性の癖を発端として、両側の二人がストレスを感じ、そして彼らの苛立つ音で私が......

ノイローゼが伝染するものだとしたら、新顔男性が発端とも限らない。
彼は涼しい顔をしているが、実は誰かの癖によってストレスを受け、そこからあの大音量タイピング等々が発生したのかもしれない。
気づいていないだけで私が原因という可能性もあるのだ。

なんてこった。ストレスを解消しようとする行動が回り回ってストレスの原因になるなんて、人間の脳ももう少し集団生活を考慮して欲しい。


我々の居室は、このままノイローゼの渦に巻き込まれるのか。
世界は豪快タイピングで溢れかえってしまうのか。

次回、解決編!
お楽しみに!(続きません)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?