夏なんか愛憎

夏は嫌いである。

暑すぎる。油断するとこの世を去りそうだ。
暑さは悪さをするが、私は悪さをしないので、私じゃなくて暑さの方がこの世を去ってくれ、と思う。


この時期は全てがどうかしている。
時間感覚がおぼつかなくなる上、人間から濃い情念が発せられていて、この世にあらざる何かがそのへんに遊びに来ていてもおかしくない気がする。
夏のあらゆる「お祭り騒ぎ」は多かれ少なかれ奇祭だ。

歳時記を真面目に使ったのは高校時代が最後だが、人や生き物の動く季節だけあって夏の季語は数が多かった記憶がある。
季語でなくても「夏と言えば何?」には「大多数が共感する回答」が多そうだ。
プール、海、花火、浴衣、怪談、風鈴、盆踊り、水やり当番、墓参り、高校野球、スイカ、かき氷、ラムネ、冷やし中華、そうめん、ひやむぎ、冷製パスタ。後半食べ物しかないけど腹ペコなのか?そうなんだよ。


今年もご近所の方の耳を慮り、なんとかして室内に風鈴を飾った。望まない音がひっきりなしにしている状況の辛さは身に染みて知っているのでそうする。
もしご近所が風鈴の音をお望みだったら徒労である。

今日のように暑い日は、自宅が庭付きだったらスイカを食うところだ。スイカが好きかというとそこまででもないが、庭に向かってスイカを食っている、という状況は好きだ。
こういう複雑な情緒を「風物詩だから」だけで説明してしまうのは簡単だが、怠惰なことかもしれない。

プールもスイカみたいなものだ。(この文だけをトリミングしてはならない)
私は泳げないし、人が多いのも嫌いだが、「市民プールに行く日」は好きだった。親や友達と一緒に向かう道中から、出たあとのほどよいだるさ、夕方家に帰り着いた時の妙に寂しい感じまで含めて、完璧な夏である。

かき氷は頭にしみて痛いし、水やり当番は面倒くさいし、墓参りはどうしたって虫に食われるし、怪談は怖いし、そうめんは二週連続で出てきて飽きるし、親が四六時中見ていた高校野球はルールがよくわからなかった。
そのものについて、好きだったかと聞かれればそこまででもない。
しかしこれら全ての記憶の表面には、夏の日差しがくっついている。やたらピカピカしている。


去年人手にわたるまで、祖母の家には夏の盆休みにしか行ったことがなかった。
家は、夏の事物を全てつめ込んだ巨大な箱型の思い出になった。


夏は嫌いである。
そのくせ思い出すときにはいつでも好ましい。鮮やかに光っている。
気にくわない。

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