“許さない選択をした自分”を許すこと/過去への清算

“許す”というのはある種“自己犠牲を肯定すること”なのではないかと思う。

例えば、恋人に浮気されたとき。
許すのは個人の勝手だが、その背景には、「自分は浮気なんてして欲しくないと思っていたが、今回だけは許すことにしよう。私この人のこと好きだし。」があると思う。つまり、“浮気はいけないこと、許せないこと”という自分の本心を、好きだからという理由(こじつけ)で無理やり上書きし、自分の本心の自己犠牲の上に「許す」を成り立たせるのだと思う。

つまるところ、「許す」は、自分を押し殺している。
こう言うと許すことが悪いことのように聞こえるが、決してそうではない。
だが、許すことが、どこか自分を曲げる行為であることはなんとなくわかって欲しい。
自分を曲げるということは、勇気のいることだと思う。難しい。自分の否定した(またはしたい)道を行くということだから、納得のいかないのは当然なのだろう。すぐに自分を曲げる人は芯がないみたいな意見もあるが、むしろ自分の意見を曲げて相手の意見を受け入れようとできるのは芯がある人にしかできないのではないだろうか。「そういう意見もあるのね、まぁ私はこう思ってるけど。まぁ今回はそのほうが妥当かな。」みたいなニュアンスである。

そう軽く考えられれば楽かもしれないが、これが人間関係や恋愛関係になると立ちゆかなくなる。許しても許さなくてもモヤモヤが残ることが多くあるからだ。今回だけは許すとは言うものの、一度許されたら、「次も大丈夫でしょ!」と思われてしまう(クズ男。。。)かも知れないし、次も許してしまうかも知れない。「またやるんじゃない?」という不安も残る。かといって許さない選択をすれば、逆に相手を怒らせてしまったり、最悪、関係を壊してしまうかもしれない。

だがその“関係が壊れる”ことを必要以上に恐れないで欲しいと思う。
関係自体を解消してしまうことで解決することは、ある意味思考停止的ではあるが、自己防衛とも捉えられる。僕は自己防衛がそんなに悪いことだとは思わない。

僕はこれを書いている時から1ヶ月ほど前、当時気になっていた人とデートに行く約束をしていたが、前日の23時ごろにドタキャンされてしまった。そのときの感情としては、ショックといったものよりも、“呆れ”が最も大きかった。
「この人はそういうことができる人なんだ、そうか。」と思った。
その瞬間から気持ちも冷めて、「そういう人とは関わりたくないな」と思い、連絡はもちろん、職場でさえなるべく関わらなくて済むように立ち回った。
そうしようと思ったのは、紛れもなくその人のことが僕は「許せなかった」からだ。
人生でのそのような選択は、思い返してみれば案外多くの人が経験しているのではないだろうか。

「関わらない」選択をすることは、関係の解消であり、「許さない」という選択をした自分を受け入れることだ。
許さない、という選択は、自分が悪くない時でも、なんとも言えない罪悪感みたいなものが付きまとうことがある。
だからその罪悪感に抗うために、自分を曲げて無理に許そうとする。
だが無理に許そうとする必要はない。当たり前だ。自分の人生の卓に「許せない」選択が多少なりともある人を座らせておく必要なんてないのだから。

ここで僕の昔話をもう一つ書き留めて置きたいと思う。
これは小学生のときの話なので、子供の戯言だと言われればそれまでだが、「世の中にはこういう人もいるんだ」くらいのスタンスで読んでほしい。

小学3年生のころ、ある女の子から告白を受けた。いわゆるラブレターをもらったのだ。そのラブレターには「好きだ」という気持ちが綴られていただけだったから、特段付き合っているという認識もなかった。
そのせいかデートに行ったりもせず、ただ月日だけが流れ、僕たちは6年生になっていた。
そんなある日、僕は数年越しにその子から手紙をもらった。
その内容は、僕を“呆れさせた”。
手紙には、「中学にあがったらあなたよりもいい人がいるかもしれないから、別れてほしい」といった内容が書かれていた。

「え。どゆこと?」

と思った。
少しの間(これが数秒だったのか、数日だったのかはもう記憶にはないが)理解が追いつかなかった。
それから僕はその人のことを嫌悪するようになった。
今となっては、先ほどのドタキャンの件もそうだが、関わらないという選択をして正解だったと感じている。

どうにも自分がどうしても理解できない言動をする人というのは、案外身近にいたりするものである。。。

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