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早稲田卒ニート177日目〜修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る〜

このには自他対立の意義を含まないで、ただ一面のである、すなわち絶対性を持つであることを心得ておくべきだ。「自由」は、この絶対のがそれ自らのはたらきで作用するのをいうのである。

(鈴木大拙「「自由」の意味」)

「自」とは絶対性であり、その絶対性を由来とすることを「自由」という。

先年アメリカで出た小説みたいな本に、子供の生活を描いたのがあって、それが一時は、ベスト・セラーになった。その中に、次のような会話がある。子供がしばらく留守にし、帰って来たので、家のものが尋ねた。

「お前どこへ行っていたの?」〔Where Did You Go?〕
「外にいた。」〔Out.〕
「何していたの?」〔What Did You Do?〕
「何もしていないの。」〔Nothing〕

これだけの会話だが、自分はこれを読んで「ここに東洋的「自由」の真理が、いかにも脱洒自在に挙揚せられている。実に菩薩の境地だ」と感心した。

(同上)

「何もしていない」はずなどない。走り回ったりあちこち触ったり、子供はほとんど一時たりとも止まることなどなく常に遊戯している。が、それは所詮大人から見た子供の世界像に過ぎない。子供が見ている子供の世界において子供は、確かに、「何もしていない」のである。そこには目的も強制も、それへの努力も屈服もありはしない。ただ「無為」であり、「無我無心」である。

すなわち、他の何ものにも服従せぬ絶対のがいかなる努力や目的に対しても無自覚にそれを行って在るとき、"Nothing"とは、「無為」と訳されて構わぬ様な「東洋的自由」を意味していたのである。

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