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早稲田卒ニート178日目〜そのグラスに、何が注がれているのか〜

地方から出てきた大学生に、銀座勤めが容易に務まるはずがない。それも、日本チャンピオンのバーである。お客様との会話もままならず、止まっている暇のない営業中に今この瞬間は何をするべきかの判断もできない。全体が見えていないのである。グラスを洗うのも遅いし気は利かないし周りは見えないしで、ほとんど怒られるために出勤している様な状況であった。営業終わりには力尽き果てるも、とっくに終電の時間は過ぎている。タクシー代をもらって帰ることもあれば、銀座から早稲田の自宅まで1時間半かけて仕方なく歩いて帰ることもあった。または早朝始発で自宅へ戻りそのまま9時から始まる1限に出席、もしくは体力の限界で睡魔に抵抗することができず、帰宅して即ち眠りに落ちる。授業が終わればまた今日も、怒られるために銀座まで行かなければならない。あまりに苦しい時期ではあったが、そのおかげで大変意義深く濃密な時期でもあった。間違いなく、私の人格形成に深く根差した経験の日々である。

それにしても銀座はいい街だった。好きだなあ、銀座。男女の賑やかな声が渦巻く夜の銀座も、早朝の人っこ1人いない寂しげな銀座も、魅力ある街だった。


授業の終わりを伝える挨拶をして直ちにバタバタと片付け始める音が聞こえると、心の中で深いため息が出る。「この1時間、私の心に残るものは何もなかった」と言われている様なものである。何か響くものがあり考えさせられることがあれば、そこに少しの「間」が生まれる。しかし終わりに余韻の残らぬ授業というのは、己の失敗として省みなければならない。

彼らは自分たちの世界の中に文明をさえ見ずに、ただ文明をそれがあたかも自然物であるかのように使っているだけである。新しい人間は自動車を欲しがり、自動車を楽しんでいる。しかし彼は、自動車は、エデンの国の樹になる自然の果実だと信じているのだ。

(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』)

スーパーには肉や野菜や果物が並べられている様に、目の前に初めから「結果」が用意された社会を生き、それを相対化することもなく享受している。しかし、例えば目の前に置かれている1個のりんごには、それを作ることに人生を捧げる人がいて、そのための努力や苦悩が必ずある。殺されてくれる豚さんがいるということは、それを殺すことを仕事とする人間がいるということだ。その背景に思い至らずして結果のみをただ享受することを、無条件に肯定してはいられまい。

」という文字には、「実」、「結」、「たす」などの様に、「終わり」のニュアンスがある。「終わり」があるということは「始まり」があるということであり、それを繋ぐ「あいだ」があるということだ。

カクテルは、ただ分量通り混ぜれば出来上がるものではない。何かを作るというのがそんなに甘いはずがあるまい。カクテルというのは、それを作り上げるまでに修行して磨き上げた熟練の技術の結晶である。たった1杯。作るのに数分。ショートカクテルならば量にして60〜90mlほどだ。しかしそこには、例えば10年とかいう長く厳しい修行の歴史が凝縮される。決して誰にでもできることではない。バーテンダーというのは職人の世界である。その職人たちが技術を高め競い合い、毎年全国大会が行われる。銀座は、店の垣根を越えて、銀座という街全体で若手を教育する風土がある。個ではなく共同体として成長するのである。そしてその成長を、銀座に根付いたたくさんのお客様が後押しする。カクテルとは、職人の世界を土壌にして修行という時間をかけて育まれ、そしてそこで出会ってきた無数のお客様を恵みとして作り上げられる「成」なのである。

飲む側であるとき、私は目の前に出されたカクテルという結果だけを受け取らず、そこに注ぎ込まれた歴史にまで思い馳せたいと思っている。これは合理的な問題ではない。そう思うと思わないとでは、有り難みがまるで違ってくるということである。

授業にだって、それが作られるまでの背景がある。少なくとも私は、教わるときにはこのことを肝に銘じたい。

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