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湯木慧教会ワンマン『告白』から見る音楽の礼拝的価値

0.はじめに

職場がキリスト教に関係している事情で、自分は礼拝を毎日行っているのだが、その中で音楽ライブとキリスト教の宗教的諸儀式には類似性が多い(正確には「キリスト教の」という限定は必要ないかもしれないが他の宗教については知識が薄弱なのでここではあえて限定しておく)ことに思い当たり、この記事を書いている。

まあ「思い当たり」なんて書いたものの、仮にもリベラルアーツカレッジで学び、専門でないにすれ、いち人文学徒として生きてきた脳内の「もう一人の俺」からしたら芸術と宗教の類似性なんてベンヤミンが75年前に語りつくしているだろと突っ込みを入れたくなるところではあるのだが。

しかし知識的にわかっていることと直感的に感じることはまた別の話だと思うので今この時が語るべきタイミングなのだろうと思う。ついでにこれを読んでいる読者の方々の多くは「もう一人の俺」とかいう痛々しいsomeoneが何を言っているかてんでさっぱりだとも思うので、文芸批評界でどのようなことが語られていたかも補完しながら語れればいいかなと思っている。

いつにもまして読みづらい枕となってしまったが今日はこういうテイストで語るのでご了承を。この書き口でやってらんねえなと思った人はブラウザバックしてくれ。もちろん文章を読みやすくすることなんていくらでもできるし、書き口をライトにすることだって簡単なことなんだが、今回はそういうわけにもいかない。

理由は2つで、ひとつは今回のメインテーマ、ライトに書けば書くほどやばいやつ感がえぐくなってしまうものを扱う。論文調というのは便利なもので、どんなに頭おかしいことを書いていてもなぜか悪く無く見えるものである。

もう一つは、はっきり言おう。「読者を厳選したい」のだ。うん笑

ここまで回りくどい口上を述べてもなおこの記事を読んでいる諸兄はきっと自分のことをある程度知っていて、置かれている文脈にも理解があるのだろう。それを前提に語ろうと思う。

そう。先は「ライブと礼拝」のみ言及したが、今回のメインテーマは「歌は祈り」についてである。もうわかったね?


1.儀式性の類似:ライブが持つ宗教性

さて、前置きがえらく長くなってしまったが本題に入ろうと思う。メインテーマに入る前に導入としてライブとキリスト教諸儀式の類似性についてまず語らなければならない。

そもそもキリスト教のミサや礼拝を知らない人も多いと思うのでまずはそこから話そうと思う。キリスト教には儀式的行事があり、カトリックではミサ、プロテスタントでは礼拝というものがそれぞれそれにあたる。この2つの相違について説明すると長くなってしまうので、今回はそれぞれがざっくりどのような要素を持っているかだけ語る。

ミサも礼拝も、進行役がおり、そのひとの進行で儀式が進む。この進行役は先生としての役割も務めるため、なにがしかの(ためになる)語りを聴衆に向けて行う。またキリスト教には聖書という聖典があるため、それを朗読する時間がある。そしてそれぞれ名前は異なるが、歌を皆で唱和する時間がある。(カトリックでは聖歌、プロテスタントでは讃美歌)そして都度、祈る時間がとられる。

それぞれ細部の形式こそ異なるが、構成は概ねこうである。

進行役挨拶⇒聖書朗読⇒聖歌(讃美歌)合唱⇒進行役の説教(語り)⇒祈り

さて、これと音楽ライブにどのような類似性があるのか。ここ

まず、ともに歌を歌うということ。そしてその最中に語り(MC)があるということだ。

特にMCはオーケストラのようなクラシックコンサートやオペラ・演劇といった公演には存在しない音楽ライブの独自性だと思っていて、この語りはアーティスト自身や歌う歌の紹介にとどまらず、時にはアーティストのパーソナルな事情に踏み込み、ついには平時では語れぬであろう心の内の吐露にまで到達する。これが進行役の説教や聖書の言葉の引用と性質を同じにしていると感じたのが今回の文を書くに起因した根拠である。

礼拝において説教や聖書朗読は人生に手掛かりを与える「箴言(ありがたい言葉)」として語られる。そしてその後に歌われる「聖歌」や「祈り」に強いメッセージ性を持たせる。ただ歌う、ただ祈るのではなく、その語りや言葉を思い起こしながら歌い、祈ることでその価値を無限倍にしているのだ。

この性質は間違いなくライブでのMCにも言えることである。皆もきっと経験したことがあるはずなのだ。普段聞いている曲のはずなのに、アーティストが語るMCを聞いた後に聞くその曲はまるで違うものに聞こえ、感情を強く突き動かされたりすることを。また、その場にいるものすべてが謎の一体感を持ち、本来共感しえないであろう感覚をその曲を通して共にすることを。ここで感じる心の動きこそが、礼拝とライブをつなげる共通点であり、ライブが宗教性を持つことの所以である。

そもそも歌(ダンス:舞もそうであるが)は古来、神に捧げるものとして文化に根付いた神事であり、歌を歌う、舞を踊る者は神官としての立場に基づいていた。そう言った意味でもパフォーマーが何かしらの神性を持ちながら舞台に上がることは歴史的な意味合いの上でも理にかなっていたりする。

2.技術革新による芸術の凋落:失われたアウラ

さて、ここまでライブというものにはそれそのものに宗教性があるということを語ってきたわけだが、芸術と宗教の相関については必ずさかのぼらなくてはならない言説がある。それを提唱したのは20世紀の文藝批評を語るうえで欠かしてはならない男。そう。ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)である。

前文でも語ったのだが「芸術と宗教の類似性について語られた思想」といえばまず名前が挙がるのがこのベンヤミンである。1936年に彼が著した『複製技術時代の芸術作品』という書には芸術が持つ宗教性が語られている。それを彼は「礼拝的価値」と呼んだ。

ベンヤミンは、芸術の起源が原始時代の魔術にあると語る。先も語った歌や舞はもとより、洞窟壁画のような原始時代の芸術でさえも神や霊に捧げるために生み出されたものであり、多くの人々に鑑賞されることは想定されていなかった。

また魔術の延長線上にある宗教においても、芸術作品は儀式が行われる特定の時間と場所に強く結びつき、小さな共同体の中で一体感を維持するための礼拝の対象となった。具体的には教会や寺院の内部に固定された神の像や、宗教的建築物の一部となっているフレスコ画やモザイク画といった宗教画があげられる。

しかし、こういった芸術が持っていた礼拝的価値は、近代の技術革新によって性質を大きく変えることになる。複製技術(版画に始まり、写真、録音、デジタル技術といった形で発展した芸術におけるコピー技術)の発展によって、芸術は一回性・現場性を失った。

彼は言う。
「芸術作品は,それが存在する場所に,一回限り存在するものなのだけれども,この特性,いま,ここに在ると いう特性が,複製には欠けているのだ」と。

そして生まれた複製された芸術(ここではわかりやすく、絵画に対しての写真、演劇に対しての映画、演奏の代わりの録音・CDとしておく)はあるものを失った。

「アウラ」である。

ベンヤミンはそれを「時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって,どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後。ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩うものに影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うことーこれが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。」と語った。

非常に難しい概念であるし、これを現代的な言い方に集約するのは学問人として非常に抵抗はあるが要するに一種の「エモさ」であろう。しかし複製によって生まれた「現場性のない芸術」はアウラを失って凋落し、さらに今まで前提としていなかった「大衆のもとに展示され、鑑賞される」ものとなった。こうして芸術の価値は「礼拝的価値」から「展示的価値」へと移行した。これが彼の説く芸術批評論である。

ここでひとつベンヤミン論者に批判されないために言っておきたいのは、「凋落」と書いたがベンヤミンは決してその移行をただ悪いものとしてとらえていたわけではないということである。

ここでは語らないが「展示的価値」も芸術の価値にほかならず、むしろ特定の文脈の中にある集団によって鑑賞されるだけでなく、個々の受け手が持つアクチュアルな文脈に応じて鑑賞されるようになったという点では進化であるとベンヤミンは考察している。

しかし複製された芸術がアウラを失ったことには変わりなく、これは先に言ったライブの例がある種証明している。現場性のあるライブで聞く演奏が録音されたデータを再生するものより強い感動を引き起こす現象は、間違いなく現場性のあるライブにアウラが宿り、CDの音源にはそれがないことを物語っている。

3.ベンヤミン論への演繹と反証:「歌は祈り」とは。

では、本当に「現場性のない芸術」から礼拝的価値・アウラは失われてしまったのか。私は否だと思う。ここまで語ってようやく本記事の最大のテーマに触れることができる。
そう「歌は祈り」についてだ。

湯木さんはこんな感じでライトにツイートしているが、そのライトさと裏腹にこの言葉にはベンヤミンの論に反証する学問的価値が込められている。

いったん今までの論で考えてみるとこの言葉にはこういった意味が込められているように思える。「ライブで演奏される歌」は「礼拝などで行われる祈り」と同義である。これだけならベンヤミンの論を演繹するに過ぎない。しかし私はこの言葉にはそれ以上の意味があると考えたい。

そもそも「礼拝」とはなんなのか。1章でも語った通り確かに儀式としての礼拝はとても分かりやすい。しかし礼拝とは本来ただのイベントではない。ベンヤミンが「礼拝的価値」と語った概念はそういった特定のイベントで催されるものだけを指すものではない。

思い出してほしい。神や霊に捧げるという神秘性、多くの人々に鑑賞されることを前提としない秘密性。そう。礼拝とは「行為」ではなく「態度」なのである。そこが礼拝という儀式の時間や場所でなくとも、「礼拝的でいる」ことはできる。

であるならば、たとえ複製されたデータであれ、それを聞くものの心は礼拝している。祈りの精神性を持っているのだ。これこそが「歌は祈り」の真意である。

ひとつ例を挙げよう。朝、仕事に行くまでの徒歩25分、朝焼けの光、鈍色の薄曇り、日によっては少雨の湿り気を帯びた肌感覚の中、iPhoneにイヤホンを接続し、聴く「産声」「スモーク」「選択」「心解く」…よくある自分の経験を照らし合わせたり、記憶を思い起こしたりしながら鑑賞する「個人的な文脈を乗せて聞く」という段階を超え、ルーティンワークのような落ち着きを与えながらも決して二度と訪れない静やかで色鮮やかな瞬間の連続。これが礼拝的でなくて何だというのだろうか。そこにあるのは紛れもない祈りの精神性である。

ライブでなくとも、生演奏でなくとも、現場にいなくとも、聞くものの態度が礼拝的であれば「歌は祈り」なのだ。だからそうした領域に達した芸術からアウラは喪失しない。いついかなる時であろうと礼拝的価値を持ち続け、祈りへと昇華できるのだと。

4.おわりに

信じられないくらいの長大さでわけのわからない論を展開してしまった。完全に厄介オタクの悪い癖である。もう厄介オタクとか超えて「人類にはまだ早い」タグがつけられてもおかしくなさそうな勢いであるが。湯木さんの「歌は祈り」にこんな壮大さが含まれているかはわからない。完全にキマってしまったファンの拡大解釈かもしれない。だからこそ今回のライブ、「告白」はそのひとつの答え合わせになるのではないかと予想している。行くものも、行かぬものも、一つの契機として2月12日を過ごしてはいかがだろうか。

鷲津

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