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背中の翼

28歳になった。

朝、通勤路、産声を聞く。
産声はいつも辛い時や、なんとかしなければいけない時にもがくように聞く曲だが、唯一、誕生日の今日この日だけは、複雑な感情抜きに、純粋な福音として聞くことができる。

アルバムは進む。続いて、バースデイが流れる。イヤホンから通り抜けるその音を聞きながら、27歳の一年について考えながら、歩く。

27歳になった日、Creepy Nutsのサントラを歌った動画をあげながら誓ったこと。「大人、頑張ります」

ロックスターが越えられない分水嶺を越えた「大人」はどうこの一年を生きたのか。

決意じみた思いで走り出した27歳、2021年のうちはその思いからくる覚悟、のようなものがずっとあった。思いに反して回らない世界を横目で眺めながらも、自らの意思が潰えない限り得られるものはあると思いながら生きた。もちろん、今まで通りただの「意志(ego)の生き物」ではなく、大人としての「意志(will)の生き物」であろうとし、大きな選択を今までの自分にはない方法で超えたり、自らの弱点に今みでになかったレベルの真の意味で落ち込んだり、そういう「大人」として走った。

だが、2022年になると、そのwillは、「意志」ではなく「つもり」だったという思いが去来した。走っていた「つもり」だった。自分はやれている「つもり」だったし、大人の「つもり」だった。

自分は幸せで、満足している「つもり」だった。

それを意識した3月末、明確化した4月頭、
6月5日に歌おうとしていた「XT」7月1日に歌おうとしていた「27」を、歌わないことを決めた。

"変わってゆくのは間違いなんかじゃないから、ただまっすぐ、まっすぐ、空を飛んでゆくよ"

イヤホンから頭蓋へ響く歌詞、思考はめぐる。

変わることと、諦めることは、決して同義ではない。

何かを諦めたところで、自分の欠点が埋まるわけではない。

変わる、ことは背伸びすることなんかじゃない。

背伸びしたって、空は飛べない。

グラデーションの中で生きていた。4月。
上がるにしろ、下がるにしろ、わかりやすかった毎日が、常に高低のグラデーションを持っている。

27年間かけて醸成した自己肯定感に、初めて疑心があった。

"変わらないものは背中の翼にあるから"

響く、まっすぐな声が。思考は進む。

変わらないものは背中の翼にあるのか?そもそも俺の背中にまだ翼はあるのか?

自らの中には、グラデーションしかない。答えを内に求め続けた27年間の生存戦略は、役に立たない。

だから、聞いた、5月、6月
さまざまな人に、さまざまな形で。

負け越してるなぁ!

って、叫んだ。


そして今日、28歳になった。

まだ、グラデーションの中で生きている。
俺の背中にはきっと翼があって、変わらないものはそこで生きている。バースデイが流れ終わった時、そう思えた。でも、今までそれを使って飛んでいたと思っていたのは、たぶん何か間違ってもいた。

「つもり」だったんだろう。



ずっとずっと一目置いている大学の親友のひとりで、カウンセラーになった同期と、5月に飲んだ時に聞いた話。

28歳から40歳までの12年間は、人間の自我が変遷する一つのスパンらしい。
自らの自我を客観視でき、少しずつ少しずつ変わってゆくチャンス。
その入り口が28歳なのだと。


人生は長い。明日も生きる。

鷲津

p.s.
俺を認め、支えてくれている全ての人に、ありがとう。

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