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2021

今年も終わりますね。皆様にとっての今年はどんな年だったでしょうか。今年も恒例の振り返りを書いて行こうと思います。振り返りを書くにあたり、大晦日に自分のツイートを見返すということをしていた。というのも、毎年なんとなく書くことを決めた状態で書き始めるのだが、今年はそれがあまりにもテーマ一辺倒すぎるなと思ったのと、忘れている感情があるような感覚があったので。

見返していて思ったことは、今年は本当にもがき続けた一年だったということ。

まずは終わらない緊急事態宣言の中、自分と周囲の大切な人たち、場所にとっての機会損失の大きさに怒り狂っていた上半期。オリンピックはそれなりに盛り上がっていたけれど、言い知れぬ違和感の中で生きていた。

機会損失はもちろんだが、去年書いた意識の分断にも苦しめられた。


動くことを厭う者、動きたいけど動くことができない者、誰かに動くことを制限された者。
ずっと動くスタンスで居続けている自分と、これらの人たちが思っていることには明確な分断があり、どうしようもない距離を感じたことがあった。

個人的には2020に皆が苦しんだ最初の緊急事態宣言時以上に抑圧された半年を過ごしていた感覚だった。あの頃は自分だけで一人暮らしをデザインしていればよかったが、誰かと何かをしたいという思いがたくさんあった今年は、本当にその分断に苦しめられた。
夏はその最たる物だった気がする。初めて「何もしない」夏休みを過ごした。

下半期はとにかく仕事に忙殺された。わかっていたことではあったが、思っていたタスクとは違う仕事にひたすら削られていた。とても楽しかったけれど。その反面、それに終始するしかない毎日に疲れていた自分がいたのも認めざるを得ない。去年は仕事をする自分以外のレイヤーが様々あったけれど、今年は本当に仕事に終始していたと言わざるを得なかった。悪いことではない。でも満ち足りていない感覚がある以上きっと良いことでもなかった。

さて、事実ベースで軽い振り返りをしたが、今年がどんな年だったかと言われたら、どう答えるか。
「達観」と「覚悟」の年だった。
そう答えることになる。

この二つの言葉はとても対照的で、矛盾するように見えるだろう。でも違う。これらは表裏一体だ。
良くも悪くもこれまでの自分は、やりたいと思ったことをすぐに行動に移してきた。でも今年初めて、今やりたいと思ったことを思うように行動に移さない状態に追い込まれていたんだと思う。

緊急事態宣言や仕事の忙しさで、やりたいことを思うようにできないこと。

その状況に対して自分が取った精神的な防衛機制が「達観」だった。

潔く諦めること。

思いを残してもできないことはできない。であるならば潔く諦めて、できることを考えた方がマシ。そう思うことが多かった。

やりたいことができないだけではなく、今年は「やりたいことをすると、犠牲が伴う」ことも多かった。先ほども言ったような分断がある以上、動けば蔑ろにしてしまう誰かの思いがあったり、その選択をすることで誰かとの関係を諦めなければいけない、そんなことが密かにたくさんあった。「達観」しないとやってられないことがたくさんあった。

では「覚悟」とはなにか。

ここであるものを引用しようと思う。11月の森展で湯木さんに渡した手紙の文面である。少し表現はいじっているが。

〜今年のここまでを一言で表すと、因果なことに、まさに『愛と苦しみを含む"選択"』でした。自分の選択が誰かを傷つけたり、意思を通すことによって失う思いがあったり、そんなことを一つ一つ踏みしめながらひとつひとつの選択を戦い、得たいものを得た代わりに、変わらざるを得ない瞬間が多くありました。

僕は27年も生きておりますが大人と思えないようなところが多々ありまして、もちろんそれは長所でもありますし、職業柄なところもあるかもしれないですが、友人には「社会人になっても学生みたいに楽しそう」だとよく言われたりもします。そんな僕ですが、今年の上半期の様々な意思決定の中で、急激に大人になってしまった感があります。今までの自分ならただがむしゃらに動いた場面で綺麗に諦めたり、自分の中に落とし所を作ったり。

リスキーでもあえて言葉にしていた場面でちゃんと心のうちに言葉を秘めたり。そんなことが増えました。
というのも、自分の力ではどうしようもない詰みみたいなものをたくさん見てしまったからなのですが、そんな自分を俯瞰して、ついに大人になってしまったな…と思うことが増えました。

今年の選択を振り返って今思えば、去年までの選択は、選択肢のどれもが選び得で、ただ唯一動かないことが損だったのだなと思える様な、そんなただ選ぶわけにはいかない選択が多い一年でした。だからこそ、一番最初の一言につながります。去年も選択の一年だったとか手紙に書きましたけど、きっと真の意味で、「苦しみを含む」選択を体感したんだろうな、と。〜

そう、これまでは一択しかない人生で、動くことしか選んでこなかった自分にとって、今まで取らなかった選択を取ることには「覚悟」が必要だった。
片方を選べば、片方を捨てなければいけない。片方を諦めなければいけない。

それには「達観」と共に、「覚悟」が必要だった。
ひとつわかりやすい具体例として、実は転職タイミングが10月にあった。

辞めざるを得なかった前に勤めていた学校が、再度募集を出してきたのだ。正直、前の学校は辞めたくなかったし、同僚の中に一生をかけてこの人と働きたいと思える人が多くいた。しかし今の自分は、今年から初の担任を持ち、有志のプロジェクトの代表顧問になったりしていて、今の学校の中に捨てきれない思いを抱えていた。

今やめるわけにはいかなかった、のだ。 
でも今年の募集を蹴れば次いつ募集が出るかはわからない。

そんな状況があった。

ちなみにこの転職タイミングの結果だけ言うと、転職はしない。今の職場に留まってもう少し頑張ることにした。

そこに至る感情や意思決定の決め手については長くなってしまうし、この決定の結果にある程度の答えが出てきたあたりで書くのが美しいと思うので書かないけれど。

他にもたくさん、選びがたい選択があったが、一つ一つ書いていくのは途方もないので、ここで書くつもりはない。でも、自分にとってはどれも達観と覚悟を伴う大切な選択だった。

2018年に、大人になることについての文章を書いた。その時は「寂しさに気づくこと、そして、噛み締めること」が大人になることだと語った。

自分は過去の自分がどれだけ今の自分と比較して劣っていたり、何も分かっていなかったり、青かったとしてもその時の自分を否定する気はない。その時の自分は確実に真剣だったし、その時の感情は間違いなくリアルだったから。それを否定するのはその時の自分に非礼を働くことに他ならないから。

でも、思う。生ぬるかった。気づいて、噛み締めるなんて。その程度では生きれなかった。
大人になったんだな。

さて、暗いつもりはないけれど、決して明るい書き口の文章ではなくなってしまったから、最後くらいは明るく年を越せるための文を書こうと思う。
苛烈な選択を迫られ続けた今年を振り返って思うのは、人への感謝。毎年なんだけど、今年も強く。

今まで繋がってきてくれた人たちとの絆は決して消えなかったし、誠実に積み重ねてきた思いは間違いなく自分の力になってくれている。ほんとに馬鹿の一つ覚えみたいに毎年言ってるけど、来年も勝負の年

だから、それを支えてくださいという願いを込めて、除夜の鐘を聞こうと思う。
最後に、湯木さんへ。

今年は例年より湯木さんへの想いは穏やかだった。でも、今年も本当に大切な決断に至るひとつのきっかけをくれたし、HAKOBUneの最後にくれた言葉はこれからの人生を生きる上での一つの指針になると思う。そういう指針の言葉、たくさんあるんだけど、更新してくれてありがとう。
本当に、いつも、ずっと。

来年は熱い年になりそうだから、楽しみにしています。

鷲津

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