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【MBTI的考察】エヴァへの共感と愛をただ語り尽くす。

『エヴァンゲリオン』

エヴァという言葉だけが、なぜか頭に残っていて、最初はどんな作品かも知らなかった。だから興味本位で、私はエヴァアニメを見始めた。

するとエヴァの世界にどっぷりハマってしまった。

その後、映画の序・破・Qと当時新作のシンエヴァを一気に見た。貞本の漫画版エヴァ全巻と映画『まごころを君に』もそのあと見た。考察動画や記事を漁りまくった。好きなシーンや映像をループして見まくった。

あの時のハマり具合は異常だった。鬱っていた私に、エヴァはドンピシャすぎた。シンエヴァはギリ映画館で見れた時期だったので、ハマりたての頃、シンエヴァを映画館で5、6回見た。好きすぎて、初めて4DXやIMAXで映画を見た。同じ映画を何回も見たのは初めてだった。

エヴァは私の鬱状態を緩和し、さらに心地よくさせた。自分の中の哲学や思想を深めたり、客観視するのに助かった。

エヴァはただの人気ロボットアニメや、よくある思春期少年少女の話なんかではなく、全ての人間の精神的弱さ、脆さ、鬱さ、心身の境界線、哲学をよく描いてる。

ロボットアニメのよくわからない語録とか、設定もエヴァには盛りだくさんで、ロボット機体と人間、人間と人間、その間柄のメタファーとかも充実していて、とても考察しがいがある。

私自身も考察しがいのある深いアニメや漫画が好きなので、今回も考察したいと思ったのだが、エヴァの全てを理解するのは難しすぎて、私は正確に全てを読み解ける気がしない。エヴァは、聖書を翻訳なしに読み解くくらいの難しさ。

だから、今回はただ単に、全てのエヴァ(アニメ、漫画、映画)への共感と愛をつらつら書くことにしよう。完全に個人的感想である。考察も浅め。

表しきれない部分にたまにMBTIを用いて書く。エヴァのキャラクター心理をMBTIで考察少々しつつ、自分の気の向くままに書く

注意:クソ長文!MBTIの心理考察は、目次推奨。



●碇シンジの鬱シーンへ共感(INXX)

エヴァの象徴的な内向型のエログロ鬱シーンといえば、『まごころを君に』の後半。
そして、外向型や健全な内向の人側から見た鬱シーンは、シンエヴァの前半。

私は正直、どちらにも共感しまくりなのだが、鬱ってるINFX(またはINXX全般)にとても刺さるのは『まごころを君に』だ。どう足掻いても、病み闇病み。

俺の存在意義って……この世界って……..っていう病みの思考ループと感情の破裂をよく描いている。病んでいるINFXの救いのない脳内まんま。

まごころを君には、1人孤独な脳内で繰り広げられる、鬱の者の終わりのない葛藤や哲学が満載だ。
しかし、シンエヴァは鬱になっている自分自身を客観視するツールとして意識した上で描かれてる気がする。

なぜなら、他者との関わりで得る『なんでみんなこんなに優しいんだよ』という現実へのギャップをふんだんに前半に表している。

現実を生きて心身ともに健康になっていくみんなの描写。内向×うつのものにとって、それと直視するのことはとても痛いことなのに。

今までのシンジ(作者)の脳内世界というより、現実の村社会、農業、食、生活の中にいるシンジという視点になってるので、シンエヴァはとにかく『現実』を叩きつけられる部分が多い。

作者の庵野自身が鬱から抜け出したことで、シンエヴァのオタクに現実を叩きつけるような内容は描けたのだろう。シンエヴァの時もずっと鬱状態だったら、内向の世界にいたら再びまごころを君に的なエンドにはなっていたと思う。

『まごころを君に』は意味がわかんね!納得できないエンドって考えも多いっぽいが、私はなんだか意味のわかんない鬱ってるエンドも好きだ。

私はうつ状態の時、まごころを君にの最後の意味不明の鬱シーンをループしまくっていた。なぜか、心地よくて。

各登場人物の心象風景、過去のトラウマのメタ客観視、
この世界への解像度、
他者との境界がわからなくなる瞬間、自分がわからなくなる時、
親からの愛の欠如、自分の存在意義、役割、

鬱で全てを押し除け、1人の世界に閉じこもりたくなる時。
自分もこの世界も他人も、全て消えてしまえ!
でも、また他人を求めたくなる時。

病みまくって、生の起源とか、この世の真理とは....…とか物事の根本まで突き詰めて、

現実が全く見えない、この世の性と関係、安心、恐怖のメタファーで、
頭を埋め尽くして、救いようもないあの時。

それを煮詰めて、とことん深めて、追求しまくったのが、
あの『まごころを君に』の鬱シーンだと思う。

そういうことを体験したことがない健全な人にとっては、『なにこれ?』とはなると思うが、一度でも鬱ってたら、心底刺さる。

シンエヴァの鬱シーン。
はとにかく、他者から見たシンジの姿だ。

シンジという人間を遠目に映すカメラのような視点である。俯瞰してる。

見事にうつ状態に陥った彼を、単純に好きだから助けたいと動くレイ(やマリ)、どこか同一視して嫌悪しつつも、あくまで必死に自分を生きていった結果、人(シンジ)のためになれるアスカ、ただ1人の旧友として支えてくれる、現実を生きる健全な大人のトウジやケンスケ。

なにもしない、なにもできなくなったシンジ。
その周囲でシンジにたくさんのことをしてくれた、みんな。
その関係性をまとめるなら、

幼少期や思春期、根本となる自我、
そこに加わるトラウマや愛の欠如

→鬱で思考の世界に没頭する

→誰もわかってくれないんだ

→僕はみんなと分かり合えるはずがない

→1人になろう

→何もできない

→ご飯も服も自分で用意する気がない、家に帰る気がない

→衣食住もなしに、1人で現実社会から逃げる

「嫌なことから逃げ出して、何が悪いんだよぉお!」

→ただ時だけが過ぎる

→「僕が悪いんだ、全部みんなのせいだ」

トラウマや過去を思い出して、泣くことだけで消費する無意味な日々

→そこへ健全な時に築いてきた絆を持った人間たちが、救済しにくる


好きだからといって救おうとしてくれる人。
現実世界を生きろ!と鼓舞してくれる人。
そのままでいいと隣にいてくれる人。


→その全てに支えられる


結果。『なんでみんなこんなに優しいんだよおおお』(泣)


うつ状態から抜け出していく過程が、綺麗に描かれすぎていて、共感した。

うつから抜け出した時の、『なんでこんなにみんな優しいんだよ』はまさにそう。

自分の頭の中にいた過去と人間、トラウマと周囲に今いる人間とのギャップで、現実の意外な暖かさに、怒りと感謝と苦しみと悲しさ、たくさん込み上げてくる。

ゲンドウの幼少期

シンエヴァのシンジが食欲が全くないという点は共感した。
アスカがシンジにレーションを無理やり食べさせたシーンを最初見た時、単純に映像のリアルさ、画面のグラグラ具合に心奪われた。そのシーンが一番記憶に残ってるまでもある。

それに一度過去に、機体(自分)の腹わた?をグロいほどに蝕まれたアスカが、横たわるシンジに食物を押し込むっていうのは対比に見える。

食べさせられて『生きろ!!』と必死に訴えられているような…あの時、何よりも一番の生を実感する。あと、シンジがレイの持ってきてくれた、レーションを貪って嗚咽するシーン。そこも共感した。

何もできなくなったうつ状態の時に、必死に食べ物を貪るあの時。
アデルーブルーは熱い色という映画にも、泣きながら貪るシーンはあるが、こういう鬱の時に食を貪るシーンは心に刺さる。

泣きながら、素手で食べ物を掴んで必死にそれを貪る時って、もう。
言い表せないけど、『うううう』ってなるよね。これは意外と、うつ状態の人に共通しているのかもしれない。

『風呂は命の洗濯よ』

●エヴァの母性愛・父性愛のすべて。

エヴァ全体を通して、母性愛と父性愛(=親的な愛)が主要な題にはなってる気がする。

人類補完計画とかいう壮大な計画の元を辿れば、ただの恋人を失った男のあがきだったり。その恋人を復活させるために、再び出会うために自分の子供もそのための材料として扱ってるかのような必死さ。

ゲンドウにとってユイは恋人ではあるのだが、『ユイなしでは生きていけなくなってしまっていた』『ユイ、ユイ、どこだ、ユイ!!』等のセリフを聞くと、
ゲンドウにとってもユイは母的な存在で切っても切れない大切なものだったと思う。

ただの恋人同士の恋愛ではなく、その存在に縋って、無条件に相手を信仰している、生きていく上で必要不可欠、一心同体的な狂気すら感じる。

ゲンドウのそういう想いはやはり、ユイへの愛とか恋とかではなくて、もはや親と子、生まれて初めての母であり、それを引き離したくない、みたいな。
ある意味、ゲンドウが一番この作品の中で、幼稚ではあったと思う。

ユイは基本誰に対しても、無条件の愛を注いでそうな人なので、ユイという存在自体が、ゲンドウや冬月、マリ、シンジの心の中の一部で、聖母的な存在になってたのは確かである。

ゲンドウ以外のアスカやレイ含め、全ての登場人物の中にある『母親像』(=無性の愛を注ぐ親とそれを常に受ける子供)をそれそれの葛藤の中で、どう切り離して、自立していくかというテーマでもあると考える。

ゲンドウは列車(ユイと会うための人類補完計画)から降りたことで、ユイに縋ることから実質的に降りた。そして、シンジ(現実)に向き合った。

シンジはその父と向き合うことで、自分が受けていた母親の無償の愛に気づき、エヴァ(母体)から分離して、自力で現実の大人になっていた。

アスカは必死に1人で生きてきた、母親の無償の愛がなかった事実に目を背けず、しっかり見て認めてくれる人と出会い、自分の生き様を心の底から肯定できるニンゲンとなった。

レイは自分の中に仕組まれた母親像に自覚して、自覚しても尚、ただ目の前にいるシンジのためになりたいと動いた、自分のために生きるニンゲンになった。

ミサトも若い女として父親の過去と葛藤しながらも、最後には母親として子供とシンジたちに無償の愛を届けた。

カヲルは最初から仕組まれていた自分の運命、そして父親像に気づき、自分の中にある愛を自覚、自分から成長し離れていくシンジを見送れた。


●碇ゲンドウとユイの世界。そこへのマリ(INXJ +ENXP)

さてエヴァの話の発端は、INXJのユイとゲンドウにある。
2人が学生時代の時は、特に一つの未来に向かってひたすら研究、研究、研究といった感だ。

そんな外界とのつながり方が似ている2人同士(INXJ)で出会うと、初対面で『あ、自分と切り離せない関係だ!』って確信するのはわかる。

でも、INXJ同士だからこそ、一度のめり込むとそれ以外見えなくなって、他に迷惑かけまくりってことがあるよね。

一度信じたことは頑固なほどに、追求してそれしか見えなくなる。
それはNi強のINXJたちの長所でもあり、短所でもある。

現に、エヴァはそんなINXJの2人の野望に振り回された人々の話でもある。

そんなINXJという猫たちを手なづけて、うまくこの話を丸め込んでくれたのが、マリ(ENTP)である。

漫画版のマリENTPがユイINFJに好意をよせてることが発覚したシーンは、まさに直感に従って動いてるもの同士の気づきを感じる。(Ne強とNi強の共鳴)

マリがゲンドウの計画にぬるっと入ってきて、うまく立ち回って、裏でユイとシンジという自分の好きなINF(J)のために、自分の好奇心のままに好き勝手動けたのも、彼女がENTP的な人だからだと思う。

シンジを最終的に救済できたのは“マリ”という点に関しても、
鬱の内向的な人にはマリのような自由奔放な外交的人々に、救われることがあるのだと、明確に表されてる。

シンジを救うのは、内向的で無償の愛を注いでくれる親的存在、レイやカヲル、ユイなどではなくて、外交的である意味、ずっと自分の欲のために生きていたミサトでもなく、

知的好奇心のまま動いて、愛や好きではなく、ただ「行こう!」といって手を引っ張って連れ回してくれる大人のマリだったのだ。

最終的にアスカを救ったのも、知的好奇心のままに生きているケンスケ(ENXP)で。

アスカに友人として共感するヒカリや身内や義理に熱い堅実なトウジ、恋愛感情を互いになんとなく持ってた頃のシンジでもない。

アスカの人生に対する表面的な共感でもなく、思春期の恋愛でもなく、愛や性でもなく、ただ『アスカはアスカのままでいいよ』と距離を置いて肯定した。ケンスケは、マリ的な知的好奇心の自由さとユイ的な見守りを兼ねている。

シンジは母親の愛が確かに、生まれた時からあったのだが、
アスカはそれが全くない。

だから、シンジと救われ方が違かったのも当然だ。

アスカ(EXTJ)のような元々外交的で1人で責任を抱える人間には、愛とか親というのの以前に、ただ彼女の今までの“生き様”を無性に肯定してくれる人間が必要なのだろうと思った。

だから、シンエヴァのそれぞれの登場人物の救われかたに関しては、私は結構納得していた。私もおそらく鬱の時は、そういう人々に救われたから。

作者が実際鬱から抜け出した時に、マリやケンスケのような人に救われたから、映画版エヴァではこのようなエンドになっているのだろうし(憶測)

●思春期の性との関係

エヴァと言えば…思春期の性的あやふやを感じさせる場面も多いよね。
これはただの感想ばかりの文になってしまいそうだけど。

思春期あるあるとしては、レイの裸を見てしまった時のシンジだとか、レイに嫉妬しちゃう恋するアスカだとか、生理で情緒不安定になってるアスカだったり、アスカの上裸を見てヌいちゃったシンジだったり、そういうシーンによく出てると思う。

端的に言えば、

思春期の恋愛と性、スキと嫌い、同族(自己)嫌悪がよく表されてるのが、シンジとアスカの関係だ。

それに反して、愛と母性、安心をよく表してるのが、レイとシンジの関係だ。

アスカがシンジに『馬鹿!』と言って、ツンデレなりの愛情表現でシンジを前にひっぱてるつもりでも、シンジは鬱ってるので、その真意が掴めず、シコったり、アスカの首を絞めてしまった。そこからの、『気持ち悪い… 』

エヴァの病みに隠れて見えなかったかもしれないが、2人の関係って事実だけ見れば、なんか思春期の男女のすれ違い(または恋人に対するメンヘラ的な逆上)そのもの。って感じしない?

ある意味シンジとアスカは幼稚で不健全な状態だったので、あの時の2人の関係性は若者同士のぶつかり合いを感じる。

そしてレイとシンジの関係は、レイという器で考えると、結構その関係性が壮大というか、シンジという存在をただ守るため、安心させるためにたくさん存在しているレイという感じで。ユイのためにレイを沢山作ったのも、ゲンドウの間接的なシンジへの愛には結果的になってるんじゃないかな。

まごころを君にのラスト、シンエヴァのラストに出てくるような、巨大な白い綾波は、まさにこの世界を包み込む母的なものがする。

でかい綾波が出てきて、いよいよ世界が補完され始めるって時に、「まごころを君に」には性器や性行為のメタファーや回想的なものが、どんどん出てきてエログロかった。

物語序盤の思春期とは違って、後半に性の根源とかの話を持ってくるあたり、最高に気持ち悪さを引き出させてると思う。あとグロシーンにクラッシク奏でるのも、最高にグロい。語彙力皆無。


●他者との心の境界線

エヴァでよく表現されているものは、「他者との境界線」だと思う。

実際、人類補完計画というものも、他者との境界線をなくして、世界が1つの魂的なものになれば、無になれば、みんな楽じゃん的な思想でもあると思うけど。

結局は、他者との境界がないと、他人がいないと、自分をうまく認識できないっていう結論だったよね。

他者がいなければ、自分の形がわからなくなって、不安になっていく。

無になって何もわからなくなる恐怖よりも、他者がいることで感じる痛みやもどかしさよりの方がマシということだ。

最初の他者。母親と子のつながりもよく描いてる。
一言で言うなら、母子分離の話でもあるだろう。

エヴァ機体(母親)と無限にシンクロしたシンジは、最後に親に自分で別れを告げたし。

最初は、機体(母親と自分)を父親の不器用な愛によって制御されたり、無理やり動かされたり、それがシンジの葛藤にもなっていた。

しかし、ゲンドウがシンジに対して『そこにいたのか…!ユイ!』と言ったように、子供のシンジを愛することは間接的に自分や妻を愛することになるのだとやっと気付いたみたいだ。

そしてもちろん、本来。シンジはユイとゲンドウの性細胞から生まれてるわけだから、それは、シンジ=自分(親)と考え、大切にするべきなのだ。

大多数の親はそれが無意識のうちに行われているが、ゲンドウの場合は『親』としての自覚が希薄というか、まだ精神的に思春期のままなのである。

ゲンドウにとってユイは聖母や崇拝対象、同然というか…

子よりもユイ。ユイよりも計画。
計画よりも過去の自分、、、といった感じである。

そんなゲンドウが、シンジの成長によって、自分の心の不具合に気づき、やっと精神的に自立した。
他者との境界線、子と親の自己同一性、子や恋人などの他者は本来、親(自分)によって操作するものではない、自由なものだと自覚できるようになった。

このゲンドウの成長は、シンジの成長ありきのもの。
シンジがゲンドウのATフィールドを超えて、大事なものを手渡したから、できたこと。

シンジはただの気弱な青年などではなく、困難な環境の中、親なしでも精神的に自立して、わかり合おうと前進できた人間である。
それに対し、ゲンドウは精神的には意外と自立しておらず、劇中で一番救いのないような人物でもある。

自分の愛するもののために、全てを捨てて、盲目的に計画を進め、空っぽの人間として生き、シンジのように他者と再び関われるような救いもない。

最高に独りよがりなゲンドウに対して、シンジがただ最後に、手を差し伸べることができたのは本当に良いことであった。
その手を差し伸べたシンジには、シンジの中には、今までのユイの無性の愛だったり、レイ、カヲル、アスカ、ケンスケ、トウジ、ミサト、全ての愛や優しさが詰まっている。

そこでその愛に気づけたのはシンジのおかげでもあり、ユイのおかげでもあり、シンジと関わった全ての人間のおかげでもある。

ここで全ては一つ、一つは全て。

……….みたいな論がまた出てきそうだが、

まあ、そういうことだろう。

この話は、この世界は、他者なしでは救われなかったのだ。
存在しなかったのだ。

他者ありきで全ての人間が、結果的に救われたのだということ。

だと推測する。


●渚カヲル的思考言動への共感(INFJの原理を考察する)

私(INFJ)が作中を通して一番共感したキャラは、渚カヲルである。

ネット上でmbti考察を見るとタイプが分かれているキャラもよくいる。渚カヲルは、INFJかINTPで分かれているといったところ。

私は考察が浅いので、渚カヲルが“どちらか”(Tiが発達したINFJか、Feが発達したINTPか)はわからない。
(ちなみにINFJとINTPの根本の倫理観や思考の違いは、ひろゆきとパックンの対談を見るとサンプリングはしやすい。興味深い。)

しかし。

どちらにしても物語の性質上、渚カヲルの言動には、NiとFe Tiが頻発しているのは確かであろう。

碇シンジに対して、無償の愛を注ぐ親的役割をカヲルとレイは与えられ、少なくとも母親ユイ(INFJ)と父親ゲンドウ(INTJ)の面影が残ってる。

そして作者はINXPという点、作中のイメージにINXJが多い点も踏まえて、
ゲンドウがユイの愛に救われていた点を考えると、

ゲンドウは少なくとも心のどこかで、INFJ的聖母像に期待や理想を抱いていて、憧れも少し持っている。

つまり、
ゲンドウ→理想の父親像(=ユイが今までくれた愛情表現に通づる)→渚カオル

という図で表すことができ、カオルはゲンドウ(INTJ)にユイのFeが加わった形になるのではないか?と思う。

INTJの思想にFeが付与されたことで、INTPになるかINFJになるかはわからない。しかし少なくとも、彼の中にINFJのNi-Feの無償の愛というモデルがいるのは確かだ。

実際、カヲルは、INFJ的特徴も多い。

◯自身が計画に組み込まれてることへの俯瞰的認知
◯自分の感情だけでなく、欲望(Se) への疎さ
◯直感的に好きになった相手への異常な自己犠牲 (INXJ)
◯思考は中立的、自分の意見はほぼ出さない、しかし助言はあり
◯基本、相手や世界の軸の中で生きている(FeとTi)
◯心を許している相手に出る強めのNi-Ti的信念や意見(=シンジへ真実を教えた時のやつ)

→後半に“自力で”この世界の仕組みに気づいた。

○成長して、この世界やシンジのため(NFJ的)だけではなく、
自分を生きること(Se劣)に焦点当てられるようになってきた。

自分のこと(畑仕事)に集中できるようになった。

などなど、である。

こじつけっぽく見えるかもしれないが、それほど私には渚カヲルに典型的なINFJの哲学や言動、後半の自己認知を感じた。

特に共感したのが、特定の相手への距離の詰め方である。

シンジに出会った当日で、自分のことは語らないままで、
シンジの核心に触れ、心を開いた。

(全員に対してそうしているのではなく、Ni的に好きになった相手への追求心がチョー重いってこと)

これは結構、INXJ的ではないか。ゲンドウもきっとそう。

私個人では、出会った時、こいつとわかり合いたいと思ったら、自分も知らないうちに、相手の自己開示をどんどん進めて、短期間で心にズブズブ入ってる気がする。それは時に不健全である。

それが、アニメの一話分で急に出てきたカヲルが行った、シンジの心の開示と通ずるものを感じた。

本人にはその自覚がないんだけど、すげえ信頼して、好きだと思うと、

知らないうちに、哲学的なことを話し始めて、遠回しに好き好きオーラーを発していて、相手に本音を吐かせるように、無意識に動いてる。

それも急スピードで。

なんか、自分でも制御できないすごいパワーが動いてる気がする(=完全に厨二病ですね)

本人的には口説いてるわけではないし、同性に対してもそれは働いていて、
(=恋愛対象の人でなく、興味を持った相手には全てそうなり得る)

INFJは猫を被らずに本気で会話をしたら、相手の心を操作的に開ける可能性が高い。

相手はすげえ信頼して、尊敬もして、依存もしてくるのに、
INFJ本人は、別にそこまで…ってこともあるかもしれない。

INFJは『好き』(Fi)だから、そうするのではなく、
興味関心や謎の信頼感(Ni)でそうしてしまう感があって、

自分の行動原理(Ni-Fe-Ti)に従った結果、そうなっただけって感じ。

これはINTPも似てるかな。

それ故にカウンセラー向きのタイプではあるのは納得できる。

あとNi強すぎるものとして、この世界は…とか、人間(リリン)は….とか、このシナリオの中で、どう演じるか…役割は…と常に考えているのは共感する。

だから急になんか思想を語りだすみたいなシーンも、っスっと入ってきたし、よく馴染んだ。

INXJが化けの皮を被らず生きたら、実在するもの、例えば性別とか、体とか、この世のルール、体制、規律の全てを無視したような言動を、超越したやばい感じになりがちである。

好きな興味を持つ人間に対して、完全に、
一晩で心をこじ開ける方法も無意識に行える。

そして、キャラクターとして渚カヲルはそもそも人間ではないから、INFJ的言動がしやすいだろう。

その最たる例が、エヴァアニメのカヲルが発したこのセリフである。

一時的接触を極端に避けるね、君は。
(=最初からなぜか、相手の心理状態を察している)

怖いのかい、人と触れ合うのが。
(=NiとFe的な相手の本質を察し,気づかい)

他人を知らなければ、裏切られることも、互いに傷つくこともない。
でも寂しさを忘れることもないよ。

(=ここで、INFJ的謎の人生哲学や結論を繰り広げてますね)

人間は寂しさを永久に無くすことはできない。
人は一人だからね。

(=相手のもどかしさを代弁して、冷静に説明する)

ただ忘れることができるから、
人は生きていけるのさ。
(=個人的主張やアドバイスでもなく、体型上はただ語るだけ。それが、遠回しの優しさでもあり、心理操作でもある)

そう。
常に人間は心に痛みを感じている。

(=ここで相手の核心に迫るセリフを放つ)

心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる。
(=追い討ちに相手への共感と辛さを代弁する)

ガラスのように繊細だね。特に君の心は。
(=遂に今の相手の核心に、自分の哲学を突き刺す)

そう、好意に値するよ。
(=哲学を散々語った後、お気持ち表明して、相手を沼らせる)

好きってことさ。
(=最後に、相手への純粋な感情をぽろっと出す)


このパターン………過去の自分と重なりすぎて、痛い…

自分は今までの人生で何度、特定の相手に向かって、このようなINFJ的詰め方をしたのだろうか…

客観的に見たら、この心の開き方って、結構やばいというか、核心に迫るのがクソ早いんだよね。それは、ある意味Niつよつよ、フル回転。

INFJの哲学というか、思想というものは、ある意味中立的であり、あくまで周囲の状況や構造を俯瞰してるようなものが多い。

個人的意見や感情を含んで、話すことは苦手。

しかし、論理的ではないので、それは常に倫理に則ってることも多い。相手の感情に合わせて、その場に必要な哲学的言葉を用意することも多い。一貫した現実的論理(SとT)はない。

相手のためを思った哲学や的確なアドバイスに見えて、それらは案外自分の信念や役割を満たすために、使っていることが多い。しかし、その自覚がないことが多し。無意識のうちにそれをしてる。

独り言っぽく喋っているように見えて、相手に問いかけていたり、
相手の望む言葉をかけてあげられるぶん、欲しい言葉を引き出す操作も上手い。

Feで遠回しな言い方をして、本質や哲学を披露しつつ、相手の不快にならない、むしろ心の心地よい部分に、

いつの間にか、っすっとクソ重い感情を忍ばせることができますね。

それがINFJの長所と短所かも。

●メタファーとメタ視点、比喩、哲学の連発

エヴァは最後の方に向かう度、その連発になっているよな。

自他の境界線、鬱の心理、大人になれない大人と、子供になれない子供。
一人の世界から、頭の中の世界から、現実の他者の世界へ移行していく
苦しみや悲しみ、喜び。
この世に生を受けることへの絶望と希望。

それらをうまく映像に落とし込んで、『アニメ』になっている。

各登場人物はみんな違うように見えて、どこか同じ部分が必ずあって。
それぞれが何かの象徴になっていたり、シンジの頭の中で変化していく。

シンジ(作者)の言葉にならない、頭の中にある鬱や思想の全てを、アニメの世界にうまく表すことができている。

現実では、アニメでなければ、もしかしたらそれはできなかったかもしれない。

あと後半になるほど、アニメーションと現実の映像の境目をわざと揺らがせるような演出が多い。二次元と三次元の対比。

私は少なくとも、鬱の時、まごころを君にを見て、自分の中の言葉にならない鬱を映像として具現化されたと思って、救われた。

●鬱(内側の世界)から抜け出し現実へ。

これは、シンエヴァの話。

シンエヴァは、全てのエヴァ(映画、アニメ、漫画、その他のコンテンツ)に決着をつけた。

これは、作者の脳内の物語、鬱屈とした人生にけりをつけたことに等しい。

これによって救われた人もいれば、救われない人もいるのは確かだろう。
一つのコンテンツを通して、さまざまな感性を持ちうる。人間だからな。

個人的な感想としては、シンエヴァのこの終わり方は、
なんとも現実的で、優しくもあり突き放すものでもある。

それが作者自身の自問自答の結果だとしても、その結果に、私個人は救われていたと思ってる。

その突き放すような感じは、ある意味『成熟した人間』として当たり前の態度というか、作者自身の中にも親的な心理は芽生えてはいるんじゃないかな。

アニメエヴァの終わり方には、自分自身の世界の結末にしか興味ないみたいな態度も感じて取れるんだけど、シンエヴァでは確かに外の世界への切実な態度が見て取れる。

それって、話の良し悪しや技術の高さ低さとかでもなく、

ただ、生きる人間として成長したなっていうのが、エヴァの全てを通して感じられるというか。

作者が自分で、ただの鬱で終わらせず、作品として消化できたのも、作品を作る前に経験してきたこと、痛みや苦しみ、アニメ制作後に感じてきたこと全て、人間との関わりを映画として消化できたこと。

それが他の誰かにとって、すごい独りよがりで納得のいかないものだとしても、本人が納得して、自分の足で成長してくっていうのは、私からしたら、最高というか、本当に良かったなって思える。

この話の主人公全員が、作者本人の心の中、その全てが本人の納得する方法で救われたのなら、それはただ良かったとしか思えない。

作者的にも、視聴者的にも、キャラ的にも
『俺がーするから、ーしろ(ーは正しい)』とかじゃなくて、

それぞれが納得する形で、本人にとって良い結末を迎えられたらええじゃないかって精神で私はいたのだけど、

シンエヴァの最後で、それがうまくまとめれられていて、個人的には心のわだかまりが、スーッと消えてくというか、スッキリした。

さいごに

いやあ、語りきれない。書ききれない。

当時の鬱の時の感想が、初めて見た時の衝撃は、もう数年経っちゃったから、言葉で言い切れないんだけど。ちょっと記憶がほぼないんだけど。

今、健全気味になってから、見返して感想を書くのも悪くない。

感想というより、エヴァを見ている時のあの感情が、私は好きでたまらなかった。それは本来言い表せないもので。

自分が精神的に救ってくれる物語と、偶然、あの時巡り会えたこと、とてもありがたい。

またエヴァを超えるような作品と出会うことが、人生の希望にもなるかもしれない。

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