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『観察日記』ー動物園に行った。

今日は動物園に行った。

この前初めて猫と触れ合った(一方的に触れただけだろ)ということもあり、動物への好奇心が謎に上がっていた。
ちょうど休みということもあるし、重い足を持ち上げて遠出することにした。

私が最初に見たのは猿山だった。
朝急いでカバンに入れてきたデジカメをすちゃっと構えて、ズームしていくと、一匹の猿が座っていた。

その猿にもう一匹の猿が、山の上から駆け寄ってきて上から思いっきり覆い被さって腰振ってた。「おっ」と思って、思わずデジカメを下ろしたら、ちょうどバッテリーが切れていて、そのシーンの一秒前でビデオは切れてしまっていた…

せっかくデジカメ持ってきたのに、残念だなぁと思いながら、歩いてると天気のいい中、休日に子供を動物園に連れていくような素敵な親さんたちが段々と増えていき、うっ、となった。

入園して早々猿山で猿の交尾?と、園内に家族連れが多いことにより、ナーバスな気持ちになりながら柵をそって歩いた。

すると、いろんな動物が自ら客の方に近寄ったりしていて、自分も数秒前のことなんて忘れ、すっかり見入っていた。
「魅せられているのは人間の方なんだなぁ」と思うくらい、その空間はみんな動物に声をかけたり、写真を撮っていた。

意外だったのが、
チーターのサービス精神?が旺盛だったこと。
ガラスの向こうによく見えるよう、スレスレで綺麗に歩いてくれる。知らないですよってフリしながら、モデル歩きしてこっちに近づいてくれる美人みたい。

柵スレスレまで歩いてくれる。美しい。
端の方でチーターがくっついてるのも意外だった。チーターって孤独でクールなイメージなんだけど、めっちゃ可愛かった。

隅の方でくっつきあってるチーターもいたので、人混みの中写真を撮った。

混んでたから、前にいたお子さんと家族連れがギリ映りそう。

カメラだけめっちゃ下に下げて、ノールックで撮れた。
動物園の隅でこんなことするなんて熱いなあ。
こっちの方にいるチーターはωがあるからオスかな。

人間でいうとこの絡み方はすごいイチャイチャしてるふうに見えるんだろうけど、チーターにとってはこの絡みって普通のことなのかもな。でも、なんか腕の回し方がやけに人間味があるよなあ。

チーターは基本単独で狩りをしたり、行動するらしいけど、オスがより大きい獲物を取る際に、他のオスや兄弟と群れることもあるらしい。

もしかしたらこのチーターは兄弟なのかもしれないな。
この様子を見て、前にいた子どもが、『ねーチーターさん、喧嘩してるのぉ?』って親に聞いていた。
親さんは、『んーこれは仲良しなんだよ。』と答えたのだが、また子さんが、『えーなんで?』と言っていて、面白かった。

子供の感性って本当面白いよね。物事の捉え方が新鮮で、動物園にお子さんが多いのも自分にとって新たな刺激だった。同じもの見てるのに、こんなにも感じてることが違うのかって。

でっかいライオンも寝てると、猫みたいだ。
ライオンが寝ているとこも見た。

ライオンを見た子供が大きな声で、『ねええー!ねー!寝てるー!』って親と会話するのを聞いた。

周囲はもう、5歳くらいの子供がたくさんいて、その親さんもそれに対しているんだけど。私は子供が若干苦手で、普段交流しないから、その状況に心が拒否反応起こしそうになってた。久しぶりに、めっちゃ小さい子たちを目にした。ストレス(=完全に自分が悪いのです)を感じながらも、子供の話す言葉になんとなく耳を傾けてみた。

すると。
さっきの会話のように、
子どもってすごい純粋で、物事をそのまま捉えられていいなぁって今日思ったし、親はそれに対してどう答えるんだろう…..って、思考に入っちゃって。←おいおい、せっかく動物園来たのに、ニンゲンを観察してるんじゃないよ!

って寒い自分ツッコミが入ったところで、順調に足を進めながら、動物を見る。

フラミンゴ、フクロウ、モルモットといった可愛い?系の動物もいる。
そこで思ったのが、猫や犬といったペットは動物園に入れらることはほぼないけど、犬や猫より小さい動物とか、同じ科の動物は動物園にいるんだよね。

確かに犬猫って、ペットショップで良く見れるし、人間が飼ってるような生き物だから動物園に居ないのは普通だと思うんだけど、モルモットとかフクロウとかうさぎがいる中、猫や犬が居ないのは、改めて見るとなんか不思議〜。

珍しい猫とか、犬を集めた動物園があったら売れるんじゃねって思った。あと今はドックカフェとか猫カフェ、意外にいろんな動物のカフェがもう出てる。
それに関して、昔に世間話をした際に、また新たな動物カフェを作るとして、どの動物が繁盛すると思う?と私は相手に問うたことがある。

すると、まあありきたりな答えで、蛇とか、豚とか、ネズミっていう変わり種の小さめサイズの動物がいいんじゃねって結論になった。けれど、その人は最後に、じゃあ人は?と言ってきた。

赤ちゃんカフェって売れそうじゃね?と。いろんな人種の赤ちゃんを部屋に集めて、そこでお客さんは好きな赤ちゃんを膝に乗せたり、抱っこして、餌やりの代わりにミルクあげ、などの体験ができる。赤ちゃんは老若男女に絶対的人気がある、ある意味動物カフェとして成り立つ、商売としては良い方向、これ考えた俺天才じゃね?

と確か、言ってた。私は最初にまず、おいおい倫理観どうなってんだ。実現したとして、絶対世界中から批判されるぞと思ったが、あれ、これって私たちが他の動物にしてたことやんとは思った。犬とか猫にも、可愛いねとか言いながら、勝手に家族扱いして、家やペットカフェに入れたり、商売として利用してるのに。人間の赤ちゃんと動物の扱い方の違いって何かな、って考えさせられた。

あと動物園にペンギンとかアシカっていう水中生物のコーナーとかもたまにあるけど、水族館にもペンギンっているよね。
もし同じ種類のペンギンだったとしたら、そのペンギンは動物園と水族館どっちに行った方が、よく育つのだろうか。
象とキリンも見た。
象が柵からすごく離れたところにいて、みんな柵におしよせて遠くを眺めていたので、私は見る気をなくしてそこを通り過ぎてしまった。

そしたら象のエリアの近くにこんな看板があった。

もう看板が剥げているが、近づいて見ると「フンや石を投げることがありますので 気をつけてください」と書いてある。
これはギャップで、笑ってしまった。
個人的に象って穏やかで優しい感じなんだけど、こういうこともあるのかあ。

遠くからズームして撮れたゾウ
多分個体差もあるだろうけど、こういう象さんもいるのね。
そうやってブラブラ園内を歩いて行った。
休日なので、もちろん8割が家族連れで、みんな保育園生や小学生くらいの子供がいる家庭なのだけど、残りの2割がどんな人がいるかっていうのも、歩いていくうちにわかってくる。

残りの2割のうちの半数以上は、なんとカメラを持った人なのだった。カメコというのか、撮り鉄とは言えないような、言い表しにくいのだけど、一眼レフを持っていきいきと写真を単独で撮ってる人たちがいた。あと親さんの中でも結構カメラに力入れてるなあって人が多かった。

出てこない動物をじっと待って、カメラを構えていたり、こんなとこに!ってところで、すかさず構えている。
ほほお、動物?の世界にもこういう人たちがいるんだと思って、また新たな気づきがあった。

カメラを持ってる人たちも自分と同じように、この動物園を単独で動いてるのだと思うとなんか安心した。
それ以外には、カップルが二組くらいと、おねいさんが1人で来ていたり、松葉杖ついてるのにかっこいいおじさん、白杖を持ってる高校生くらいの二人組、車椅子に乗って家族と周ってる子、老夫婦、それと自分!いろんな人がいた。

ニンゲンも観察するとやっぱ面白い。
少し目を向けると、みんないろんな理由で来てるんだろうなって。
残り2割くらいの人たちは、今日どんなことがあって、どんな理由で動物園に来てんのかなーって、疑問を持った。その人たちも楽しめたらいいな。
でもやっぱ思ったのが………動物園は家族で来るとこなのか(泣)ということ。

なぜなら、お昼時の行列(並んでない)や外のご飯やはもう、ご家族だらけなのだ。自分以外、自分の周りの椅子は全員家族連れだったので、それをめっちゃ感じた。思い立って、1人でくるようなとこじゃなかった。

そう思いながら飯を食べた。北風が吹いて余計サムイ。外のガタガタになったプラスチック椅子で飯食べたら、自分の膝も震えるのかと思った。
食事中も、親とは…..子供とは…..動物園って、動物って、という思考が巡って、ここに書いてあるようなことをずっと考えてた。

でもそうやって考えちゃう自分にとっては、こういうちょっと刺激的な場所がたまには必要なのかもしれない。
あえて休日の、日曜日の混み混みショッピングモールに行って、家族連れがいっぱいるフードコートとかで飯を食うのも、適度なストレスかも。まあ、でも……..今日の動物園でしばらくは外出欲がお腹いっぱいだ。言い訳〜。

なんだかんだ、お昼の人混みに耐えきれず、近くの森や池があるようなスペースに入って1人になろうとした。
森林の中歩くのは心がなんだか浄化される。雑踏がなく、穏やかになれる。すると、そこにもまた家族連れがいた。

その子供は『あ!あそこにいるよ』と言って、木の幹を指して親と妹?ぽい子供に見せてた。私の距離からは見えないが、その子は多分すごく目がいい。小さな鳥を見つけたのだと思う。

そう言えば、さっきからここでは鳥の声が四方八方から聞こえてくるのだ。
その子をすごいなあって思った。他の子達は動物園の動物に惹かれてたんだけど、その子は多分結構、鳥に興味もある子なんだろうなと思う。

ふふと思いながら、さらに進むと周囲に全く人はいなくなった。池が見えてきた。そこには、たくさんのコイやカモがいる。ああ、公園の池によくあるやつっぽいと思い、水面をしばらく眺めてぼーっとした。

今日一日のストレスを消化すべく、池の近くで地面に座った。誰もいないし、座ってよさそうな場所だったので、池をぼーっと見て、

コンクリートの地面に直で座って、若干あぐらをかく。

遠くで子供の声が聞こえ、小鳥の声も四方を動いている。

午後の日程を考えながら、少しまた考え事をする。
すると、なんだか池の方からプクプクっという音が小さあく聞こえるのだ。

最初は小さかったのに、その音はどんどん大きくなってくのだ。
なんだなんだ?と思って、池の方に近づいて水面を覗くと、コイがこちらに顔を向けて、っスっと顔を上下させて、口をぱくぱくしてる。それも、十匹くらいいる!

きもっ!こわ!と思って、あたふたして、見てはいけないものを見ちまった…と嫌々思いながらも、興味津々で池の底を覗いた。
すると緑色に濁った池の底にはもっと、もっと何十匹もコイがいた。

端の方では、カモも泳いでいるし、なんだここは、いや普通の池だなと思いながら、どうしてもいいかわからず、なぜかその気持ち悪い水面をスマホ写真に収めといて、周りを見回した。

すると、看板が!
『コイへの餌やりはおやめください』との旨を伝えた、結構立派な看板が立っていた。普通、そういう看板って、個人が勝手に立ててるのかと思ってたけど、この看板はちゃんと作ったんだな感が強い。

なるほどね。だから、こんなんになってしまったのか。
このコイたちは、この池に近づく人、来る人、全てを『餌をくれる人だ!はやくちょうだい!!』って認識してるわけだ。

可哀想に。あんなに口をぱくぱくさせて、何にも要りませんよって顔しときながら、池に足をちょんと近づけるたび、こちらを必死に見つめて、餌を求めてくる。

愛に飢えてるニンゲンと全く同じで、可哀想だな。と思いながら、もうそのコイを上から覗き込むのにも、飽きて、私は再び少し離れた地面に座った。

しかし、あんなに必死になって、餌を求めてくるコイ。一体どんな人間が餌をやってたら、ああなるのか。私は考えた。

だってあの池は、カモもいるし、池にもプランクトンがたくさんいそうで、肥えてる水ぽく見えた。管理者もいるようだし、餌の状態は常に整ってるはず。それなのに、なぜ…….?

きっと、勝手に餌を毎日やってたご老人でもいたのか。食べきれない食べ物があって、せっかくなら残りは池にあげるかっていう思考ならわかるんだけど。これほどになるまで、毎日うまい餌をあげた人間がいる。これは完全に餌付けしてる。

その人間の心理って。自分の手によって(餌をあげることで)、小さい動物が自分に群がってくることに、優越感とか承認欲求とか、満たされるものがあるのかな。それとも、自分がやってあげてるんだぞという、偽善なのかな。

それに釣られたコイたちは、その人間の安い動機により、毎日毎日こうやって口をぱくぱくさせてんのか……

面白いな。(無慈悲)

そのコイは腹が減ってるわけでもないのに、飢えてるわけでもないのに、ここで美味い飯が得られるという報酬を期待して、このようなことをしている可能性があるのか?

餌をやる側も、コイがたくさんよってくるのが、自分に群がってくんのが面白くてやってんのか?ある意味これはSMプレイか?

などと考えてると、もう日が暮れそうになるので、思考に没頭する前に、飽きを起こして、私は起き上がった。

何より、コイの口の音が自分にとっては、うるさかった。

なんの音もなく、平穏な池を見つめて、一息つけると思ったのに、コイがいたから、ちょっと集中できなかった。あの迫真の口呼吸というか、魚は口呼吸なわけがないんだけど、たくさんのコイが必死になって、人間を見つめて口動かしてんの見ると、その光景が嫌でも思い出してしまうじゃんか。

朝は猿の交尾見て、帰りはコイの必死になった顔か…何しにきたんだろ。

20分ほど立てば、コイたちは疲れて、口も動かさなくなったが、まだこちら側をたくさんのコイが泳いでる。期待しながら、こちらをチラチラ見て泳いでる感じがする。目も泳いでる。

しつけーなと思って、帰る前に、最後に少しからかおう(=観察するため)として、餌をやるふりをして近づいた。

すると、「ぽくっぽくゅ」と水面が鳴ってるのだ。
必死に餌を求めて、その水面が喚いている。

おもしれー。

一生学ばないし、死ぬまでこのコイちゃんたちは、餌に飢えてて、ずっと来る人全てに、その口を開いて必死になってんのか。

全然見た目が好みじゃないけど、馬鹿イヌみたいでかわいい。

餌をやりたくなる気持ちがわかってきた。
私の場合は、優越感や偽善というやつより、興味本位で餌をやる方な気がする。そのコイがどんな顔して、餌に食らいついて、魚たちがこの池をぐらぐら揺らすのか、見てみたい。必死になって身を乗り出して、肥えてる魚同士でぶつかり合う姿。完全に鑑賞物だ。

毎日餌やる気にもならないし、気が向いたら、その必死になった顔が見たくて、急に大量に餌まきそうだし。その後数日置いて、焦らすのもまあ面白い。まあ、実際にしたら、とんだ池の迷惑になるから、絶対やらんのだけど。

そのまま、ずっと餌欲しさに溺れてろよ、餌で肥えて上手く生きるんだな。
そして餌をやってる人間も、自分のやったことに、責任感もてよ!看板まで立てさせてさ。捨て猫に責任感もなしに、餌をやる人間と同じなんだよな。一瞬の自分本位な行動欲求に従うことで、その動物の一生の命の向きを左右してんだよな。その自覚がないんだろうな。私は自覚があるから、そんなことしない。

だから、私は餌もやらずに、顔を引き攣りながら、その様子を覗き込んだ。

自分はただの通行人だからな!と思いながら、複雑な気持ちになって、池を抜け出した。

あのコイたちの必死さ、あの顔は結構衝撃で、ゾンビみたいだ。コイのあの群がり方、人間の生存競争(恋)における必死さを想起させる。池の外から見たら、それって滑稽というか、その状況に溺れてるようにしか見えないんだよな。愛などそこにはない、ただの欲の需要供給。

おもしれー。自分にとっては、それが興味深い鑑賞物にしか見えなかった。

あと池の中に飼われてるコイたち、檻の中で生きてるライオンとか、鳥類、他の動物を見ると、「かわいそう」って思う人もいるっぽいけど、
私は「かわいそう」と思うのは、こちら側の主観でしかなくて、実際その動物がどう思ってるかなんて、ニンゲンにはわかんないんだよな。

狩りに出ず、毎日タダで飯がもらえて、ナワバリ争いすらないような環境に、慣れているかもしれないし、満足かもしれないし、こんなの嫌!と思ってるかもしれないし。その動物たちが、我々の言語を使って、その気持ちを発さない限り、人間側はずっとそれを続けるしかないんだよね。

動物が突然ある日、「タダ飯嬉しい〜もっとくれ。あの芸するの本当は嫌なんだよね。めんどくせーけどやってやるよ」とかいう不満を人間に言葉でつたえられるようになったら、少なくとも今のような管理体制は崩壊するし、「はやく檻から出してください!倫理観どうなってるんですか!」とか言い出したらもう終わりだよね。生命倫理があーだこーだってそこかしこで始まる。

私たちが今、動物を管理して鑑賞物や愛玩動物として扱えているのは、動物が自身の感情を言語で話さないから。人間ほどの知性がないから。
それを上手く綺麗な言葉で丸め込んで、「動物園」とか「ペット」「家族」って言ってるだけ。動物の中でも特に見た目が、人間にとって好ましいものは、便利な有益な種は繁殖され、それ以外はだんだんと減ってく。人気の種はペットショップで高値で売買される。
それを分かった上で、今までと変わらず動物の世話をするのか、分かってない上で、世話をし続けるのか。表面上は同じでも、それがあるかないかだけで全く違う。

動物の言語を学ぶ、翻訳するという研究やツールの開発というものが進んで、それがもし実現した時、倫理的問題がどんどん出てくるのは、想定できるだろう。

このまま真面目に脳内議論してると、次にやるべきことも逃しそうになるから、ここらで思考をブチっと切るか。

池よ、動物園よ、あばよ。