運命予定説だと思うか
大学四回生。夏。
私は人生で失敗したことが一度だけ。大学受験。
自分の能力のなさに落ち込みながらも頑張ったつもりだった。
第一志望に落ちた。人生最大の失敗だと思った。
けどどうだろう。大好きな服を学べる学科に行き、やりたいこと好きなことが学べた。とても恵まれた環境ではないか。
今の大学は大好きだ。いや芯が通っていて強くてかっこいい友だちのことが大好きだ。
彼女らなしにはこの大学生活は非常に味気のないものになっていたし、つらいときは目を背けていただろう。
この存在は何物にも代えがたい。
人生はこれの連続だ。
失敗だと思っていたことがまるで失敗ではなくなる。
就職活動。
第一志望に落ちた。
これはそんなに落ち込まなかったと言えば嘘になるが、それでも昔の私よりは随分大人で強くなっていた。
就職活動は自分が選ばれることでもあるが、同時に選ぶことでもある。
受験やテストと違って点数のみで評価されるのではない。
自分の適性や会社の雰囲気と合っているかどうかを判断される。
私はつまりその会社には合っていなかったのだ。箸にも棒にも掛からなかったわけではないので本当にそうだと思う。(まあそう思いたいという主観も勿論含まれる)
人事の人とたった数分話すだけで自分の人間性や今までやってきたことを判断されたくない、と思うかもしれないがじゃあ今度は逆にどこまで見てもらえば納得するのかという話になる。
そういう意味では私はこれもまた失敗ではないと思っている。
運命予定説。
私はこれを割と信用している。高校の倫理の時間に習ったこれをなぜか今でも覚えている。
今調べてみると、ジャン・カルヴァンが提唱したキリスト教の神学思想らしいがそんなことまでは覚えていなかった。
ではなぜそんなに覚えているのかというと、倫理の先生が高校3年生の私たちに言ったのだ。
「もし、君たちが今勉強をしてもしなくても元々行く大学があらかじめ決められていたとしたらどうする?」
高校3年生の受験を控えた子たちにはなかなかにセンシティブな質問だと思った。
でも私はとても面白い質問だと思った。だから覚えているのだろう。
まあこれが確か1学期(春か夏ごろ)の話だったからよかったものの冬のセンター試験前の佳境に入った時だったらまた話は変わっていたかもしれないが。先生も気を遣ってそんなことを言っていたと思う。
その質問に対する当時の私の答えは勿論NOだった。
まあ当たり前といえば当たり前だ。努力しても意味がないということになるからだ。
それに受験というのは最後の最後まで諦めないというのが鉄則だ。
テスト直前に見ていたところが出題されるかもしれないし、そのたかが1点や2点がされど1点や2点に変わって合否に大きく関わる。
人生で勉強を一生懸命してきたことがある人ならわかる話だと思う。
最初の話に戻るが、私は第一志望の大学に落ちた。
周囲の評価やブランドが進学校生だった当時は何よりも大事だったし、国公立大学は入るのが難しい故にとても価値があることを知っていた。
それに学費の面でも国公立なら親を困らせることはない。
しかし、それだけなのだ。理由は本当にそれだけ。
立派な理由の一つではあるが、もし第一志望の大学に行くことになっていたら私は全然したくもない繊維の研究ばかりしていたかもしれない。
したいことよりも大学の価値の方がずっとずっと上だった。
友だちも今の大学の友だちと出会えていなかったと思うだけで怖い。
人生は一回きりだ。
叶わなかった選択に対して憶測でものを言って、今の自分を正当化したいだけだと他人は言うかもしれない。
それもそうだ。途中で修正は可能だったとしてもそのときの選択は一回きりだ。
第一志望の大学に行っていた自分の人生は、生まれ変わりでもしない限り味わうことはない。
その人生もとてつもなく楽しかったかもしれないし、逆に不満たっぷりだったかもしれない。
でも私は思うのだ。
無宗教ながら都合のいいときだけ神様を出してくるのは卑怯かもしれないが、自分にとって必要な道しか神は進ませようとしないのではないか。
あなたにはこの道を勉強し、この人と出会い、ここに行く。
あらかじめ決められている道を私たちはさも自分が選択したように歩いているだけなのかもしれない、と。
これは別に誰かを励まそうとか自分を慰めようとかそういう意図で書いたのではない。
ただ、私は大学四回生。
また岐路に立たされている。また私は迷い、そこで道を選ぶ。
どこを選んでも失敗ではない。神は非情ではない。
行くべきところで会うべき人と幸せな人生を歩める。
私の長い長い独り言だと思って読んでくれたらいい。
ありがとう。
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