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自作の虚構から抜け出したいと思ってる私から、同じくそう思ってるどなたかへ

興味を持って取り組んだらなんとなくできちゃうことがある。そういう経験が連続してしまうと、ある程度できてしまう自分という認識に陥る。

初めてポスターや企画書の類を作る時もデザインどこで勉強したの?と言われるくらいには仕上がったり、企画一つにしても面白く効果的なものができてしまったり。はじめに想像したような努力をした覚えがなく、面白いなと思っている間に、平均点を超えてしまったりすると、積み上げた時間が作る土台がないままに「なんとなくできる」ということが経験として積み重なってしまうことがあった。とはいえ、ポスターを作るとすれば今街にある様々やいろんな時代の資料を漁ってイメージを作っていくし、日常や特別な体験で出会った考えや法則を、今取り組んでいるものに転用できないかくらいは考える。もちろんそうしないと出来るものも出来ないとは思う

これはいわば勘所を抽出することが比較的得意とも言えばいいように聞こえるが、問題なのは、なんとなくできてしまうことで勘違いが起こってしまうということだ。「おれは、ある程度のことはなんとかできてしまう、少しだけすごいやつなんだ。」という虚構が出来上がってしまう。

引用したワタナベアニさんの無料記事で、キリギリスの時期があったと回顧している。そして見事にアリナイズされた。ナイス。ただそんじょそこらのキリギリスではなかっただろう。

さて、この自作した虚構は、何かをして、多少なりとも評価を受けることでどんどん増幅して自信のようなものになる。何かをして、多少なりとも評価を受けている限りにおいては。ところが、その何かをして、多少なりとも評価を受けているという機会がなくなる。つまり人生の冬のようなものが来ると、わかりやすくしっぺが返ってくる。蓄えがない。蓄えだと思ってたものが泡のように消えてしまっている。飢えを凌ぐスープもなく、寒さを凌ぐ穴もない。ご存知あの物語のキリギリスの逸話通りとなる。(あの物語の設定は虫好きとしては少し苦手だ。)

具体的な話をすると、まず車屋さんで営業職をしながら、雑誌へのコラム寄稿やイベントを企画し運営していた。その後プロスポーツの観戦というエンタテインメントどっぷりの世界で、業務問わずコレだと思うものをやり続けてきた。ビジュアル化も、商品デザインも、タグラインやコピー作りも、メッセージ性も、演出も、全て必要だった。そして海外で体験した町に溶け込んだスポーツエンタテインメントに理想を見つけ、小さな島でその初めの旗振りをさせてもらってきた。
社会に出る前からアイデアマンっぽく扱われていたし、ハガキ職人だったし、書くことも苦にならず、何かしらを企む人ではあった。

ここまでは、ステージが変わっても何かをして、多少なりとも評価を受けるという運動が続いていた。

で、ここから。

自身の中で大きな地殻変動が起こり、もう一度社会に出ようという気になるまで2年が必要だった。その2年で山とバスフィッシングに明け暮れ、子どものころに確かに感じた、だけど遠ざかっていた熱のようなものが宿って、バスフィッシング文化を地方から抱きしめてやろうという考えに至り、相棒はプロアングラーとして、僕はバスフィッシングの編集者の1人として雑誌を書くことを決めた。

怖くて、書けない。
手も足もでない。
足は出さなくてもいいかもしれない。

これまでも書いてきたし、個人の仕事として受けることもあった。雑誌にするために覚えないといけないことはたくさんあるが、そもそもの、読みたいものを書こうとしているそのものが怖くてできない。理由は明確で、これまでは、専門ではないのに(ある程度)出来る。という枠から出ることがなかったのだ。いざ、本業として書こう。全ての責任を持って書こう。その覚悟を支える経験を僕はしてきてこなかったのだ。

あ、冬来た。

悩み倒しながら、それでもいろんな文章や知に触れながら過ごし、かなり前に読んでいたこのアニさんのnoteに数週間前に思い出して読んでみた。

よし、中年のアリになろう。
今までの経験の転用という感覚は一旦置いて、ここから毎日サボらず編集者として、物書きとしての時間に全振りしよう。

まず、夜中の力を借りてアイデアの魔法を唱えることをやめにした。あの魔法は副作用も多く、生活に大きな波を作ってしまう。
朝早く起きて、外にコーヒーを持ち出してホッとしたあと、朝の2時間はとにかく何かを書くか、考えることにした。その後今手伝っている仕事を数時間して、相棒と何度も思考を重ねたり、先人の文章や体裁を見ては分解してメモしたり雑誌を解体したりするようになった。時間は無いので、初心だがのんびりしてられない。夜は考えないが、文字を浴びる。月曜日は休む。

活動の理念や方位磁針のようなものができ、
話し合ってきたことも明確に向かう先になった。
まだ荒いが、記事の原液になると確信できる原材料が揃い出した。もちろん評価されるかはまだわからない。もっというと始まったばかりで、うまくいくのかもわからない。

だけど、間違いなく昨日より今日の方が書くことの経験値を蓄えたという実感がある。それはとても小さいけど、確かにある。それが安心感になり、支えになる。いわゆるあの物語のアリのアレである。その努力の正しさはわからないけど、サボらなかった。

この時点で2000字を越えるほど、回りくどく書いてしまったが、纏めに入る。

僕は人生で初めて専門家としての仕事をしようとしているんだと思う。この仕事には果たしたい目的があるので、必ず成し遂げたい。それには書くことが必要で、責任を持って書くためにはそれを支える土台がいる。経験値とも言うが、僕は安心感だと思う。蓄えていると感じる安心感。その安心感は、毎日を書く人として生きることで少しずつ蓄えられる。もちろん凹む時もあるだろうが、そんな時に蓄えがあると無いとでは大きな違いがあると思う。

最後に、自作の虚構と書いたけど、僕はそれを悪いことだと思ってない。間違いなく小さな頃からの僕が好奇心を大切に生きてきたから、どんな時でもいろんなものを受け取り、工夫してこれたんだと思ってる。キリギリスは、努力をしなかったんじゃなく、全力でその瞬間を謳歌し続けた。

でも、これからやっていくことは、本質的で安定した底力がいると感じていて、そのためには支えるものが必要だと感じたから、アリを見習って全フリをします。明日をサボらないことを大切にします。

もし今、なんとなくこれまで出せてきた力に少し儚さを感じる方がいらっしゃるなら、ぜひワタナベアニさんのこのnoteを読んでみてください。少し圧倒されますが。

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