死刑制度*ヘンリー・ダーガー*ペレック、筒井康隆*『あひるの空』*『100日後に死ぬワニ』*予定説

 1981年、フランスの法務大臣ロベール・バダンテールが提出した死刑廃止法案は、国会で圧倒的多数の賛成により可決された。当時の世論調査では、死刑賛成派が61%を占めていた。
 

 
 記憶に残らぬほど幼い頃に母が出産で死に、その時生まれた妹もすぐ養子に出され、やがて父親とも死別したヘンリー・ダーガーは、その後の人生をほとんど完全な孤独のまま過ごした。81歳で彼が死んだ時、住んでいた部屋から1万5145ページにのぼる夢想的な物語の清書原稿と、その挿絵となる数百枚のイラストが発見された。絵にはたびたび裸の少女たちが現れるのだが、その股間には、ちょうど同年代の男の子になら似つかわしいであろう小さなペニスが描かれていた。彼はおそらく、女性器の形状が男性器と異なることを知らなかった。
 

 
 ジョルジュ・ペレックはアルファベットのEを使わずに一冊の小説を書いた。筒井康隆はそれに触発され、使える音が次第に減っていく物語を書いた。そのような執筆上の制約の下で、筒井康隆は今までなら書けなかった性質のものが何故か抵抗なく書けている自分に気づき、それまで忌避していた類の記述を率先して物語に取り込んでいった。それは不思議なことに、ジョルジュ・ペレックが様々な制約の実験を通して着手していったのと全く同じジャンルのものだった。つまり、詩、自伝、ポルノである。
 

 
 高校バスケット漫画『あひるの空』では、インターハイを目指して予選を勝ち進むストーリーの合間に、突如として大会終了後の——つまり未来の——後日談が挿入される。そこでは主人公チームが予選でどのような結果に終わったのかが、こともなげに先取りして明かされる。最終的にしかじかのタイミングでしかじかの高校と対戦したこと、そして敗北し、結局インターハイには行けなかったのだということも。不可思議な、そしてあまりにも決定的な暴露。以後に描かれるすべての試合の結果を、読者はもう知ってしまった。主人公らは予告された試合で必ず負けるだろう、そしてその試合までは必ず勝ち上がるだろう。それはたとえるならこういうことだ。もしも『スラムダンク』で、「翔北は三回戦で愛和学院にウソのようにボロ負けした」と大会前に予告されたら? 我々は二回戦の山王戦に変わらず熱狂できるだろうか? 元より勝利を期待しうる初戦の豊玉戦さえ、著しく緊張感を損なってしまうのでは? そして三回戦は——どのように描かれていたとしても、「どうせ最後には負ける」という思いに憑かれながら読むことになるのではないだろうか? 『あひるの空』が取ったのは、そういうリスクなのだ。したがって気になるのは、その見返りである。「敗北の待ち受ける物語」と化したことで、この作品は何を勝ち取ったのだろう?
 

 
 あるいは『100日後に死ぬワニ』は、その死の予告によって何を可能にしたのか?
 

 
 カルヴァンの予定説においては、誰が神に救済され、誰がされないか(要するに誰が天国に行き、誰が地獄に行くか)は生まれる前から決定済みとされる。神の予定は変更不可能であり、地獄行きの定めにある者は生後どれだけ善行を積もうと地獄へ落ちる。同じ推論によるならば、救われるべき者はいかに罪業を重ねようとも救われるだろう。ところがカルヴァン派の信徒たちは、そのような堕落には陥らなかった。彼らは自分の救済を信じた上で、悪徳に耽るどころか、極めて勤勉かつ禁欲的に生きようとした。なぜならば、神というのは結局のところ、そのように正しく生きることのできる人間たちを予め選んだにちがいないのだから。そうして彼らは、その正しき行いのひとつひとつをもって、自分たちが選ばれた者であることを証明しようとしたのだった。反対に、もしも罪を犯してしまったならば、このような悪しき私は地獄行きを定められし者なのではと苛まれることになるだろう。したがってやはり善行は欠かせなかったのである——神の予定はもう変えられないが、その知られざる中身に少しでも期待するために。


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