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推し文化についていけない自分を呪う話

最近はよくできたアニメが多く、ぼくが勤める学校の生徒から「あれが面白いよ」と推薦されたりする。そもそも、主題歌なども爆売れしているらしいそのアニメは、ある事件で人気アイドルの母を失った子どもたちが、芸能界で活躍するという物語だった。

絵柄が今どきのデザインなので、慣れるまでちょっとだけ時間がかかったのだけれど、ストーリーがとてもしっかりしていて見応えがある。登場人物のバックボーンも隅々まで設定が行き届いており、絵も綺麗、声優さんもとても素敵な感じである。

ほかの人の口からも「このアニメが良い」と聞くことがあるのだけれど、そんな時、無邪気に「あ、ぼくもあのアニメが好き!」と言えない自分がいる。いや、本心ではとても好きなのだけれど、恥ずかしくて言えない。なにかを「好き」というが、この年齢になっても、いまだ恥ずかしいのだ。

「勧められて、仕方なく見た」とか「夜中うたた寝してたら、たまたま流れてたんだけど」とか、そんな言い訳をしないと、ドラマもアニメも集中してみていることを他人に言うのが恥ずかしい。自己分析すると、じぶんの思考のどこかには「自分は他の人間とは少し違う」という、プチ選民意識があるのだろう。

ぼくは特別なセンスを持った人間だから、一般の人とは違うものに魅力を感じるんだよね。だから、最近の流行りのものをみることはしないけどさ。でも、結構なかなか最近はよくできた作品多いじゃないか。良きことこ、良きこと。

というような、めんどくさい思考なのだ。しかも上目線。

思い返せば、中学生時代も、友だちらが「中森明菜」だの「松田聖子」だの「おニャン子クラブ」だの言っている時に、その輪を少し俯瞰してみるスタンスで「そんなものは大量消費アイドルじゃないか」と距離をとっていた。アイドルを「推し」とする文化には迎合しないぞという謎の反骨精神を持っていたのだ。

今考えると、それはとても損をしていたと思う。周りの人間からすると面倒臭いヤツなわけで。そのくせ、中学生時代から、ゴダールだのフェリーニだだの言ってたもんだから、なかなか趣味の合う人に出会うことはなかった。本当は、そんなにたくさんアート映画なんて観ていたわけじゃないのに。それも一つの鎧だったのだと思う。

そんなわけで、大人の階段をのぼる過程で「推しを愛でる」という思考が育たなかったぼくとしては、時代を凌駕する現代「推し文化」に、しっかり乗っかっている人たちが羨ましい。いまだに、ぼくは、人前で「これが推しだ!」と言えないインナーチャイルドなのだ。

しかし、百花繚乱の「推し文化」って、形を変えて江戸時代からあったらしい。古くは歌舞伎役者推しの「ご贔屓筋」や、大相撲の力士推しの「タニマチ」。それらは現行推し文化の元祖なのだそうだ。「推し文化」が刹那的で軽薄に見えていた自分の捻くれ度合いを、ぼくはいまも呪っている。

今からでも間に合うだろうか。思い切って大声で行ってみようか。

「推しの子」が面白いって。



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