見出し画像

【ネタバレあり】さいたま国際芸術祭2023で「目[mé]」の作品に出あう

埼玉県大宮市「旧市民会館おおみや」がメイン会場となる「さいたま国際芸術祭ま2023」に行ってみた。もちろん、この会場のディレクター「目[mé]」の作品を一度体験してみたかったからだ。

ここから書くことは展示のネタバレなので、これから「さいたま国際芸術祭2023」来場する予定の方は、読まないでくださいね。会期は、2023年12月10日までです。

会場は、大宮駅から徒歩15分のところにある「旧市民会館おおみや」。1970年に建てられた建造物で、昭和レトロ感満載だ。新しい市民会館ができたので、この古い方の会館はもうすぐ取り壊されるらしい。その前提なので、今回の展示は、この建物を縦横無地に使いこなしている。否、切り刻んでいる。

この展示には2箇所に入り口がある。一つは通常の受付がある出入り口。もう一つは仮設された2階から入るメインゲート。今回の展示では、この大きな3階建の「旧市民会館おおみや」を縦切りにするように、会場全体が透明なアクリル板で区切られている。

つまり、2つの入り口から入ると、別々の動線が用意されていて、2種類の展示がみられる設定なのだ。2つに切り分けられた展示コースをAとBとしよう。延々と続くアクリル板は、部屋の真ん中や、ホールの客席まで延々と続いている。そして、観覧途中に観覧者は、切り分けられた展示Aと Bは行き来することはできない。展示コースを変えるためには、またわざわざ入り口までもどらなけらばならないのだ。

ただし、展示Aと展示 Bを仕切るのは、莫大な量の透明なアクリル板。つまり、展示Aと Bを行き来することはできないのだが、お互いの展示を観ている人達同士の姿は、お互いが観ることはできる。市民ホールの事務所から応接室、劇場のバックヤードから守衛室まですべて展示に使われているので、すべて見て歩くにはなかなか時間がかかる。なんなら、入ってすぐの受付も裏側から見ることができる。

三階建で屋上まである大きな建物を、アクリル板でだいたい半分に切り分けるわけだから、異常ともいえる作業量だ。なぜ、こんなヘンテコな展示形式になっているかというと、そこにもう一つ仕掛けがある。展示Aを観覧する人たちは、展示 Bを観覧する人達を、アクリル板ごしに観覧することになる。もちろん、逆もそういうことになる。

この観覧客やスタッフの中に、「スケーパー」と呼ばれる嘘の観客やスタッフが紛れ込んでいるというのだ。そういえば、入り口付近のなにもない広報板の裏で、ペンキを塗り続けている人がいた。たぶん、それはスケーパーなのだろう。止まったまま動かない掃除の女性を1人見つけた。たぶん、その人もスケーパーなのだろう。

展示コースの途中に「スケーパー研究室」というのがあり、スケーパーとおぼしき人を見つけた場合、オンラインや紙ベースで報告できるようになっている。小さな研究室の壁一面に、スケーパー情報が貼られている。「階段のところに座ったままの男の人が怪しい」とか「大声で美術の話をし続けている女性2人が怪しい」とか「階段に綺麗に並んでいる枯葉が怪しい」とかさまざまなことが書かれている。

スケーパー情報は「旧市民会館おおみや」内だげはなく、大宮市内全域に及んでいる。よく読むと「自宅の隣のコンビニの男性は、昔からスケーパーだと思っていた」とか、「職場の向かいの自動販売機のゴミ箱がいっぱいなのはスケーパーの仕業だ」とか、都市伝説まがいのデマ情報がたくさん混じっている。たぶん、一部はアーティストやスタッフが書いた仕込みなのだろう。

小出しに接触する「スケーパー情報」を観ていると、アクリル板を挟んで向こう側の展示コースに見える人達の「誰がスケーパーなのか?」とだんだん訝しくなってくる。そういえば、「あそこでずっと立ち止まってる人はあきらかに不自然だな」とか「あそこで打ち合わせしてるスタッフは絶対おかしい」とか、いろいろな不信感が湧いてくる。

しかし、それを確かめる術はないので、答え合わせはできない。アクリル版1枚で仕切られ、お互いがお互いを観察するだけなのに、そこには観る人、観られる人の構造がうまれてしまう。こらが、今回の展示のアートディレクター「目[mé]」のコンセプトなのだ。

そして、展示をみながらあることに気がつく。「あれ?アクリル板のあっちから、こっちをじっと観てる人、もしかして、ぼくのことをスケーパーと勘違いしてるんじゃないか?」。そんなことを考え始めたら妄想は終わらない。どんどん「観る」と「観られる」の関係は、迷宮の中に入っていく。

会場を出た後も、町行く人をみると「この人、スケーパーなのでは」(絶対、そんなことはない)と見てしまう。妄想がとまらない。観察者の感覚に慣れてしまうと、なかなかそれは抜けきらないのだ。「呪い」のように突きつけらる初めての体験は、会場を出た後もしばらく続いた。これは、楽しくてしょうがない。

しかし、帰りの電車の中であることに思い当たる。

この「観る」と「観られる」の倒錯は、もしかするとテレビやスマートフォンの画面を通したぼくらの関係に似ているのではないか。ぼくらの生活は、観ているつもりが観られる立場になったりすることもある。さらに、当たり前のように流されるデマや不確定な情報の中を泳がされている現代。今回の展示は、その構造を客観的見せられていたのだろう。

「アートは問題提起をするもの。デザインはそれを解決する道標」と書いてらっしゃるアートマネージャーの方がいた。そういう意味で今回の「目[mé]」の作品は、思い返すとゾッとするような問題提起をくれた。あちこちで素敵な物議を醸し出している「目[mé]」の作品を、今回目の当たりにできるのは、貴重な体験だった。

展示に行った次の日、テレビからイスラエルとパレスチナの戦闘についてのニュースが流れていた。ガザをとり囲むあの広大なフェンスの映像をみながら「旧市民会館おおみや」を分断するアクリル板を思い出しす自分がいた。

展示Aから展示 Bにはいけない。展示A=ぼくらは、ただ妄想を膨らませながら、展示 B=相手側で起きることを観ることしかできない。この不合理な不条理は何層にもなって、世界に存在する。それを知ってしまったぼくらは、もう、後戻りはできない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?