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若い頃は腹の黒さを隠すのに懸命だったのに、大人になったら純粋さを隠すのに懸命だ

最近、夫や子どもに対して言葉や態度がキツくなっている。
辞めどきかも。そう思った。

納得できない思いを勝手に自分で飲み込み、家に帰れば、許してくれることを見越してケアされることすら期待しながら、夫や子どもに理不尽な難癖をつけたりする。

そんなことは恥ずかしながら今に始まったことではないのだが、最近の頻度は目に余る。
よろしくない状況だ。

それでもなお、子どもたちが、うんざりするほどの喜怒哀楽を絶え間なく私に見せつけてくれることだけが救いだ。
「怒・哀」をいつのまにか見せつけてもらえなくなる前にこの状況を打破しなきゃいけない。

こうなれば、とっとと華麗にクイックターンを決めるか、空気を悪くすることを覚悟でその場で思いを口にするかのどちらかだ。

越えなくてもいい壁はある。
どうする私。

クイックターンをしたならば、社会に対して無責任なこと、そして納得のいかないことに耐性がないことに心からの「申し訳ない」を伝えよう。
伝えたならば、清々しい気持ちで誇りをもってまた今を生きたい。
私には自分と大切な人を無闇に傷つけずに生きるという、何より重要な責任がある。
誰が大切でどんなことを大事にして生きていきたいかはちゃんと知っている。

明日にでも自分のいる場所を物理的に失うことに一切の怖さはない。
昨年までの私が、自分は信用に足る人間だと思わせてくれた。これからの私にも、自分は信用に足る人間だと思わせ続けてほしい。

「それは違うじゃん!」と思うことを、話し合うこともなく無理矢理ポジティブに変換してことなきを得ようとすること。
大人な対応を心がけること。
これらは今の私にとっては100害あって一利なしだ。

すすめてきた話や調整してきた話がひっくり返ることに、うんざりすることはあれど怒ることをやめたりしない。
慣れたりなんかしない。
「そういうものだ」「勉強になった」などと物分かりのいいフリをして生きることはしない。

若い頃はあんなに腹の黒さを隠すのに懸命だったのに、大人になったら自分の持っている純粋さを周りにバレないよう隠すのはなぜか。

そんな青臭いことをいつまで言っているんだと言われても、納得できないまま進むことは私にとっては死んでいるようなものなのだ。

若者の投票率を上げたいのは具体的には誰なのか。
若者の投票率が上がることで喜ぶのは具体的には誰なのか。
どういう状況になれば投票率は上がったと言えるのか。
移住者が増えることで喜ぶのは誰か。
移住者が増えた先にあるまちはさまざまな誰かにとってどんな世界なのか。
そんなことを共有して進みたいが、当たり前なことすぎるのか聞いてはいけないことのようにさえ感じる。
それでも私は聞きたいし話したい。
面倒がられても、実際に動く人間として納得しなきゃいけない最低ラインだと思うのだ。

数字やお金を動かそうとし、数字やお金の先にいる人の心を動かそうとしないのはなぜか。
ちゃんとしたルールはないのに、「不安が拭えないから」で可能性を排除するのはなぜか。
なぜ怖いと思うものをしっかり目で見て、本当に怖いものなのかどうかを判断しないのか。
その方が効率的じゃないか。
痛みなんてその後の決断のしやすさを思えば一瞬だ。
想定しうる悪いイメージは聞けば聞くほど確かに怖い。でも実体験でないのなら説得力はない。

やれない理由ならとことん出てくるのに、やれる方法を探そうともしないのはなぜか。
それでも探すとなればノーヒントのダンジョンに世間を思い知れとばかりに投入されそうだ。
自分がやっていないことを、涼しい顔で誰かにすすめるなんてできない。

視察に行く時は、謝礼は必須だとも言い続けたい。
それを生業にしている人に費用も払わず知恵だけを持ち帰ろうとし、さらに活かすこともしないのなら時間とスキル泥棒だ。

まだある。

家というものが人生の1/3くらいの時間をかけてお金を払い続けていかなくてはいけないほど高いのはなぜか。
義母から届く写真に映る私が、ほぼ半目で見切れているのはなぜか。

ゼェゼェ。
書いてるだけで息切れだ。

久しぶりに、どうした私。
最後の二つに関しては完全なおまけ&愚痴じゃないか。

とにかく、そんなことを深い納得なく、今までとは逆の立場でそれこそ涼しげな顔で進めている自分に涙が出るほど腹が立ち、そのジレンマでガタがきているのだ。

これは、公務員か民間か。
どの立場での発言か。
どっちが大変か。
何が間違っていて何が正しいか。
そんな話ではなく、なぜ私は今そう動くのかの話で、一個人としてどう考えて生きていきたいのかの話だ。

なんだかんだこのモヤモヤがエネルギーになっているから続いてしまう。
一緒に働く人や関わらせてもらっている人、凪いでる琵琶湖がすぐ近くにある環境が好きになっているからつづいてしまう。
プライベートで行った皮小物のワークショップでほぼ無意識に琵琶湖の形のキーホールダーを作っている自分には若干引いてさえいる。

職場でもプライベートでもなかなかに楽しく過ごせているからこそ、わざわざ空気を悪くするだろうことを言う必要はあるのだろうかと振り切れないのだ。
でもそれじゃ私が私でなくなるのだ。
でもでも、言葉を飲み込めば私が私でなくなるように、私が言葉を発することで、誰かが誰かでいられなくなるのだろう。

同じ価値観を持つなんて、ずっと一緒にいる家族であっても奇跡だ。分かり合いたいのでもなく変えたいのでもない。目指す場所は同じなのだから、その道の途中で、分かりあえないことや、分かり合えない理由が分かるだけで大きな価値だ。

ううーーーん。
うううううううううーーーん。
ダメだ。「だってなんだか だってだってなんだもん」状態に突入だ。

いっぱい怒って考えたら眠くなった。
とめどなくこの悶々を書き続けたいが、こんなに眠いんだもの。寝るしかない。

寝る前に「最近ごめんね」と夫に謝ったら、
「あのことなら、全然気にしてないよ」と返ってきた。ちなみに夫の言う「あのこと」は全然違うことだった。
それじゃなくて、と伝えたところ「あれも全く気にしてないよ」と返ってきた。「あれ」も全然別のことだった。自分の悪行の多さに恐れ慄き、眠かった目も覚める。

子どもにも「最近のお母さんやな感じだったよね、ごめんね」と謝ったところ「ううん。私こそ、いつもお母さんがいつまでも寝てることや片付けないことをばあばに言っちゃってごめんね」と返ってきた。完全に目が覚めたし、謝罪を撤回したい気分だ。

やはり、八つ当たりなんてするもんじゃない。

とにもかくにも、まずは12月を目標に。
的をずらさずにまっすぐ怒れ、私。
そしたらまたリラックスして楽しんだらいい。

おやすみ。

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