わたなお

2022年8月5日最愛の母を亡くしました。母は生前、脊髄小脳変性症(SCA3)と闘って…

わたなお

2022年8月5日最愛の母を亡くしました。母は生前、脊髄小脳変性症(SCA3)と闘っていました。 母が生きた証を残したいと思いnoteに母との思い出を書きとめようと思います。 同じ病気と闘っている方に見て貰いたいです。 私は元医学部生中退で、現パーソナルトレーナーです。

最近の記事

医学部受験の結果「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

2013年僕が29歳の時より受験し続けて3度医学部医学科を受験しましたが、3回とも合格には至りませんでした。 やはり、高校生の時もそんなに、勉強が出来てたわけでもないし、順位は下から数えた方が早かったし、、、 やっぱりだめか、、、 と半ば諦めかけていたんですが、山口大学には保健学科検査技術専攻という学部があり、臨床検査技師の資格を目指す学部が社会人入試を募集していました。しかも山口大学は再生医療にも力を入れており、臨床検査技師の資格を取得し、大学院まで行くと、臨床培養士と

    • 不正出血「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

      僕が30歳のころ、母が64歳の時、母のおむつに出血がみられるようになりました。 一度だけなら痔かなと思ったのですが、肛門からの出血ではなく、膣部からの出血でした。僕たち家族は血の気が引く位心配しました。 母はただでさえ、脊髄小脳変性症という進行性の病気を患っているのに、これで子宮系の癌だったら、ダブルパンチというか、泣きっ面に蜂というか。 そんな酷いことになったらどうしよう? もっと母は悲しんでしまう。。。 もしそうだったら、本当に神様を恨んでやると思いました。

      • 医学部医学科を目指す!!「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

        2013年僕が29歳の時 僕はパーソナルトレーナーとして活動をしていたんですが、興味のあるスポーツドクターが主催するセミナーに出席し、その先生とお話させていただく機会がありました。 その時に、僕の母の事を少し話をしたら、国立大学の医学部医学科には学士編入という制度があり、学士を有している人であれば受験でき、通常の現役学生が受けないといけない科目数よりも圧倒的に少ない科目(生物、化学、物理、数学)のみで受験できる制度があるという事を教えてもらいました。 その事を初めて聞いた

        • 母が鬱になる「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          東京から帰ってきて、家族と一緒に生活できる幸せを噛みしめながら数年が経ちました。 この数年の間に、母の病気は、ゆっくりではありますが、徐々に母の体と楽しみを蝕んでいました。 今まで車いすから少しは体を浮かすことはできてたし、手にも力が入っていたので、自分で車いすを動かす事もできてたんですが、2012年11月、僕28歳、母62歳の時、なぜかそれらが、できなくなりました。 その時、母は、全く笑顔をなくし、生気を失ったようでした。身体にも力が入らなくなって身体は傾き、自殺した

        医学部受験の結果「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          東京へ就職「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

           僕(当時23歳)は加圧トレーニングの資格を取得すると同時に、山口県を出て、東京でひと花咲かせたいなぁと思うようになり、東京での就職活動をするようになってました。 しかし、東京での就職活動というのは甘いものではなく、10社受けてもなかなか決まりません。そして、11社目にして、やっと1社、加圧トレーニングを指導するジムに受かりました。 受かった時は、一刻も早く両親に報告。 そのときは、父と母はとても喜んでくれました。 もう、この時から母(当時57歳)は構音障害で口数も少な

          東京へ就職「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          加圧トレーニング「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕は、実家でバイトをしながら通信制の大学に入学し着々と資格を取得していきました。 まずは、これから英語位できないと食っていけないと、なんとなく思っていたので、英語の教員免許を取得しました。 そして、僕が20歳の時にアテネオリンピックを見て感動してスポーツの世界で食っていきたいと思うようになり、英語の教員免許を基礎に保健体育の教員免許を取得しました。 教員免許を取得する際は、教育実習をしないといけないんですが、実習中、生徒を叱る事の難しさを実感し、自分は教員は向いていない

          加圧トレーニング「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          母にとっての仕事「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          母も60歳になって、すでに社会に出て仕事をするということはできなくなっていました。家ではできる範囲の家事と、指のリハビリとして麦わら帽子の材料を作る内職をしているだけ。 学校の先生や保育士をバリバリしていた母にとってそれは、寂しいことだったと思います。 そんなある日、市役所の方から 「渡邉さん、ピュアカウンセラーやってみんかね?」 というオファーが来ました。 ピュアカウンセラーというのは、同じように障がいを患っている方とお話しをして、障がいを持たれている方の心のケアや不

          母にとっての仕事「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          父の愛「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕の家族は、市営団地に住んでいたので、ペットを飼うことができませんでした。 しかし、テレビでアニマルセラピーの番組を見て僕はこれだ!! と思いました。ペットが居れば母は病気でも元気でいてくれるはず、 団地で飼えて、吠えない、鳴かない動物と言えば、、、 そうだウサギだ!! と思って早速ミニウサギを飼う事にしました。 ペットショップへ行き、手ごろなミニウサギを購入。 しかし、ウサギというのは懐くという事がなく全然アニマルセラピーの効果を発揮してくれませんでした。そしてゲー

          父の愛「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          姉の子ども誕生「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          姉の結婚から2年後、母58歳の時に姉の妊娠が分かりました。 このころから母は、孫ができ、おばあちゃんになるという事で、私達家族は母の事を「ばあちゃん」と呼ぶようになっていました。 そして、姉が無事、子どもを産んだ時は、家族全員で喜びました。 実は、母が一番、孫の誕生を喜んでいたのかもしれません。 ある日、母が孫の為のモノを買いに行きたいというので近所の「西松屋」という赤ちゃん専門店へ連れていきました。 その当時、母はまだ足が使えていたので、ステッパーを外して足で車い

          姉の子ども誕生「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          姉の結婚式「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

             僕が22歳、母56歳のとき、姉が結婚式を挙げる事がきまりました。 母は、それは、それは喜び、結婚式が行われる1週間前から着ていく衣装を用意してハンガーでふすまの所にかけて楽しみにしていたました。 ところが、結婚式の数日前、母はトイレからでる時に転倒し、背中を強打しました。その時は痛みはとてもひどかったようで、ベッドに横たわり何もすることができなくなりました。 数日経てば良くなるだろうと思っていたんですが、全く良くなる事はなく、CTを撮って検査してみると、腰椎が骨折

          姉の結婚式「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が大学生になったとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕は高校を卒業して山口県という田舎から脱出したい!!と思い、県外の大学を受験しました。 あまり勉強はできる方ではなかったんですが。。。 見事入学を獲得したのが、広島の近畿大学でした。 そして初めての一人暮らし。よく、母から仕送りが届いていました。仕送りの中には大量のお菓子や腹巻き(笑)。一人での寂しい生活でしたが、仕送りが来たときは温かく、嬉しい気もちになったのを覚えています。  近畿大学では生物学を勉強していました。 しかし、だんだんとこれは自分が勉強したい事ではな

          僕が大学生になったとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が高校生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が高校生の時、母(51歳)はまだ、朝ごはんも、お弁当も、夕ごはんも作ってくれていました。 僕が友達を家に連れてきたら、よくコーラで鶏の胸肉を柔らかく煮て友達に振る舞ってくれました。 友達は 「美味い、美味い」 と全部たいらげてくれて、そんな、優しい母が、僕にとっては自慢の母でした。 あと、リンゴを砂糖とレモンで煮たコンポートは絶品でした。あの絶妙な酸味と甘みは、何回作っても同じのができないんです。作り方を教えてもらっておけば良かった。  僕の高校は弁当を持っていかない

          僕が高校生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が中学生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が中学校2年生になるとき、兄が私立の大学に行く事を決め、家計は火の車になりました。 父は子供の決断を優先する人なので、思い切って決断し、一軒家を売る事になりました。父は設計士なので、夢のマイホームを自分で設計して作った家。その家を建てた時は、何よりの喜びだったようです。その家を手放す事の決断は断腸の思いだったと良く聞きます。 そして僕たちは家賃が安い市営住宅に引っ越す事になります。市営住宅は家賃が安いということで、かなり激戦な抽選が行われるんですが、運よく僕たち家族がこ

          僕が中学生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          病気の兆し「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          ある日、僕が一輪車の練習をしていた時、母も自転車が乗れなかったので、一緒に家の前で練習し始めたんですが、どうしても乗れず、むしろこけて、膝は血だらけでした。 この時から母の病気は目を覚まし始めていたのかもしれません。 これ位の時期から、母はこける事が多くなってきました。バランスをとるのが難しいという感じで、子どもをおんぶするのも怖くなり、大好きだった保母さんを辞めることになりました。 大好きだった仕事を辞めないといけなかった事、本当に悔しかったことと思います。 そのころ

          病気の兆し「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が小学生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が小学生のとき 僕が小学校(低学年)の時、母はまだ、全然元気でバリバリ歩いていました。 僕の小学校の時の運動会、母に勇姿を見せたく、一生懸命走りました。ちらっと母を見ると応援してくれて益々、やる気が出てきたのを覚えています。お昼には重箱で作られたお弁当を父と母と兄と姉と僕でワイワイつまんでいたのを覚えています。 母は僕が小学校低学年の時は保母さんをしていました。ピアノを弾いて童話なんかを時々歌って僕に聴かせてくれていました。仕事の帰りなんかには、僕がお気に入りのブラック

          僕が小学生のとき「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が保育園児の時「脊髄小脳変性症の母と生きる。」

          僕が保育園児の時 僕は兄、姉がいる末っ子で母が大好きでした。しかも末っ子だからという理由で、末っ子の特権だと勝手に思い込みわがままし放題でした。母は一番僕に手を焼いた事でしょう。でもその分一番可愛がってもらったと思っています。 例えば4個くっ付いたゼリー、3人兄弟で分けると1個余りますが、必ず母は内緒で僕だけに「食べり」とくれました。 保育園に連れていかれた時は、母と離れたくなくて、保育園の玄関で、周りが引く位大暴れして、母親を困らせた事もありました。 保育園の遠足の

          僕が保育園児の時「脊髄小脳変性症の母と生きる。」