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人間には2つの種類がある。バンジージャンプを飛んだことがあるか、無いかだ。

僕は人生で2回バンジージャンプを飛んだことがある。
1回目が2010年で、2回目が2019年だ。

その経験から、僕は身の回りの人にバンジージャンプを勧めることがある。今回は、その理由について話をしようと思う。

最初にはっきり言っておくと、「バンジージャンプを飛ぶメリット」なんてものは全くない。何かが手に入ることもないし、得をすることもない。でも、バンジージャンプを飛んだことは確実に僕の人生を豊かにしたと思っている。

「バンジージャンプを飛ぶ」ということは、「いろいろと不安なことはあるし、安全である確証はないけれど、そういうものは一旦わきに置いておいて、きっと大丈夫だと信じて行動する」ということだ。

その足についているロープは本当に切れないのか?いろんな器具とか留め具があるけど、本当に正しく装着されているのか?体重の計算間違えて、地面に激突しないのか?このスタッフ、片言の日本語だけど本当に大丈夫か?真顔で「泳げますか?」って聞いてくるけどどういう意味だ?

疑い出したらキリがないくせに、「安心できる要素」は一つも見えてこない。

唯一わかっているのは、日本ではバンジージャンプの死亡事故の記録は”ほぼ” 無い、ということだ(怖くなった客が器具を装着する前に足を踏み外して落下した、という例があるらしい)。

※参考:バンジージャンプ(Wikipedia)

1994年に、日本にバンジージャンプが入ってきて約四半世紀。
その間の事故件数が4件、死亡が1件。
翻って、その間に日本で交通事故で無くなった方はざっと15万人。

年間のバンジージャンプ回数がわからないので正確にはわからないが「あきらかにバンジージャンプの方がリスクが高い」とは言えないだろう。

一方自動車については、僕らの生活にとってあまりにも当たり前で、また人類が長い時間をかけてそのリスクに「慣れてきた」こともあり、僕らは自動車に乗ることを怖いとは思わない。

このことは、日本における新型コロナウイルスの状況にもよく似ている(国外の状況も含めると少し異なるが)。
インフルエンザウイルスによる死亡者数は年間約1万人(超過死亡を含む)、自動車事故による死亡者数は年々減少しつつもまだ年間約3千人いる一方で、コロナウイルスにおける日本での今までの死亡者数は、累計で1,600人程度だ。「コロナウイルスの方がリスクが高い」とは言い難いが、それでも人はコロナウイルスの方を怖がる。

「でも、コロナウイルスについてはまだ解明されていない部分が多いのでリスクが高い」という論調もあるが、僕はそもそも自動車事故のリスクを全然把握していない。自動車死亡事故の主要な原因も、自動車事故全体の死亡率も、事故を起こした人がもう一回事故を起こす確率も、何も知らない。誰かが知っているらしい、ということ以外は。多分これを読んでいるほとんどの人も同じだろう。でも僕らは、自動車に乗ることを怖いとは思わない。

これは、ある種の認知バイアスによって引き起こされる。この認知バイアスは人間の根本的な性質によるものなので、避けるのはなかなか大変だ。認知バイアスについては、↓の本に超わかりやすくまとまっている(あまり網羅的&専門的ではないが)。


多分僕ら人間は、そもそもいろいろな物事が起きる原因やプロセスをほとんどわかっていない。雨が降る原理をちゃんと理解している人も少ないだろうし、トランプ大統領がなぜ当選したのかわかっている人なんていないだろうし、原子力発電がどういう原理で動いていてどんなリスクがあるのか知っている人なんか一握りだろう。それでも、世界は日々回っている。なぜだかはわからないけれども。

そんなもんだろう。

このこと自体はいたって当然のことだと思う。今の世界は「すべてをちゃんと理解するには、複雑すぎる」。いちいちすべての理屈や原因を確認していたら、とても日々回っていかない。特に問題がなさそうなことは「そんなもんなんだ」と納得し、次に進む。それが僕らの生き方だ。

少し補足をすると、僕は「世界のことを理解・解明する努力は必要ない」ということを言っているのではない。その不断の努力は、必ず人生と社会を豊かにする。大事なのは、何をあきらめて何にこだわるかだと思う。ここの選択のセンスについては話が逸れてしまうので端折るが簡単にだけ触れると、汎用性が乏しい個別・具体的なものをあきらめて、あとは自分の心に従って本当にこだわりたいと思うことに注力すればよいと思う。この時注意するべきは、それが本当に自分自身が自発的にこだわりたいと思っているか?他人や環境に流されて選択していないか?ということだ。


本筋に戻る。

バンジージャンプのように「実際はどうやらリスクがないみたいだが、なんとなく避けている」という種類の物事は世の中にたくさんある。それは人によって違うかもしれないが。

この「なんとなく避けているモノたち」と僕らの間にある境界線が、僕らの人間としての輪郭なのだと思う。ここまでは安全だけど、ここから先は危ない。ここまでは自分、ここからは他者。

ようやくタイトルにつながってきた。バンジージャンプはその境界線を一瞬で飛び越えてしまうのだ。

メリットは一つもない。
なのに、不安なことや不明なことは山ほどある。
そしてそれを超えたときに、そこは一瞬で「安全な場所」にひっくり返る。

僕が言う「バンジージャンプを飛んだことがある人」とは、つまり「このことを知っている人」のことだ。自分が実感している境界線のその外側にも普通に世界は存在していて、一回超えれば当たり前のことになる、ということを経験し、実感している人のことだ。

さっきも言った通り、そもそもこの世界は「よくわからないこと」で満ちている。平均的な人間が理解している世界の理は、0.1%もないだろう。

そのくせ、僕たちは「よくわからないから」というなんとなくの理由でいろいろなものを敬遠する。なるべく足を踏み入れないようにする。

だから、この「よくわからないものに飛び込む」という経験は非常に貴重なのだ。0.1%の世界にとどまるのか。それを超えて、1%の世界に行くのか。その境界線がある。

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最後に、「愚行権」という言葉を紹介したい。

愚行権とは、たとえ他の人から「愚かでつむじ曲りの過ちだ」と評価・判断される行為であっても、個人の領域に関する限り誰にも邪魔されない自由のことである。

上記にもあるように、これは僕らに与えられた「自由」の一つの形だ。
たとえ他人が愚かだと思っていることでも、さらに自分さえもが愚かだと思っていることでも、僕らにはそれを実行する権利がある。

そして、この自由が、僕らの人生を豊かにするのだと思う。

少し大げさかもしれないが、バンジージャンプにはそんな意味があるのだろう。

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