3つの遊び:消費、蓄積、生産

自分にとっては三つの遊び方がある。
そもそも遊びとは何か。
その定義も実はあいまいなものであって、24時間すべてが遊びであるというとらえ方もできるし、真の「遊び」にたどり着いたことがないという考えかたもできるだろう。
しかし友人と酒を飲む時間は「遊び」に入るし、自分にとっては一人でカフェで音楽を聴いたり、インターン関連の仕事をしているときも遊びである。
ここで「遊び」がもつ重要な意義は、その活動によって自分が楽しみや喜びを得ているということだ。ここでの遊びは、このように広く定義したい。

自分にとって「楽しみ」「喜び」を感じる瞬間はいくつもあるが、その性質を大分類として三つに分けることができるだろう。「消費」「蓄積」「生産」だ。一つずつ整理しよう。

「消費」はもっとも「遊ぶ」の辞書的な意味に近いだろう。代表的な例をあげるとすれば、友人とのランチがそれにあたる。午後の1時から3時の間に大学時代の友人と、駅のおいしい店に1000円のランチを食べに行くとしよう。そこでは大学時代の懐かしい話に花を咲かせ、さらには友人の近況を知ることができる。話は盛り上がり、「楽しみ」「喜び」を得ることがだろう。
しかしその楽しい時間の対価として、「1000円」というお金、これを稼ぐために費やした時間、そして友人と過ごした2時間を消費することが必要だ。正直に言えば友人と過ごす時間を「消費」と言うのはあまりにも酷かもしれないが、消費の事実は変わらない。

次の「蓄積」だが、正直なところ残りの二つとの線引きが難しい。というのも、友達とのランチでした会話から得られる情報も学びや二次的な経験として蓄積されていくからだ。「蓄積」を「インプット」と言い換えることも可能だろう。しかしここでは、意識的に時間を学びに変える遊び方、インプットに費やす時間を「蓄積」の定義としたい。(友人との会話から得られる蓄積はある意味二次的なものであり、「楽しい時間を過ごす」というシンプルな理由が一次理由であるためここには該当しない。逆に言えば、興味のある分野に精通している人とのランチ、情報交換はここに該当する。)
蓄積は主に新聞購読、言語学習、プログラミング学習、英会話、筋トレなどがあたるだろう。ポイントは、「楽しみ」「喜び」を得ることが一次的な理由ではないことだ。「学び」や「強化」に副次的についてくるものがこういった感情だ。

「生産」は文字通り何かを生み出すこと。つまりは執筆、ポスター作成、SNSでのアウトプット、web作成などだ。この「生産」は「蓄積」と深く関係している。
何故なら「蓄積」なしに生産活動を行うことはできないからだ。記事執筆一つとっても、その記事を執筆するだけの知識を蓄えなければならない。また執筆過程で不明な点がある際、その都度インターネットや本を用いて調べる必要があるだろう。またいくつかの生産活動はスキルも要する。例えば企業向けのポスターを作成することを思い立ったとしよう。パワーポイントの基礎的な機能だけを用いて作成することは可能かもしれないが、よりよいものを作ろうとすればするほどデザインの知識や関係ソフトの使い方に精通する必要が出てくるだろう。画像を使う上で著作権についての知識も必要だ。

これら三つの遊びの特徴を踏まえたうえで考えるべき「遊び」の特徴。それはいずれも「時間」を引き換えに行う、ということだ。
1日に人間が活動可能な16時間すべてを「遊び」と捉えるなら、人生におけるすべての活動が「消費」「蓄積」「生産」のいずれかになるということだ。
自分自身に問いかけたい。はたして自分は、これ以上、「消費」をしたいだろうか。
「蓄積」「生産」ですら多かれ少なかれ消費しているのだ。短すぎる人生における限られた時間を。
「消費」の遊びはたしかに楽しい。友達とバカみたいな話をしたりクラブで踊ったりひとりで上手いラーメンを食いに行ったり。きっと自分はこれら抜きで生きていくことはできない。できるのは仙人のみだ。
ただ、「蓄積」と「生産」が高度に絡み合う楽しみの片鱗を知っている自分が、惰性で、思考停止状態で、やみくもに時間だけを消費していて良いのか。その答えは自分が一番よくわかっているはずだ。

常に自分自身に問い続けたい。この一瞬、人生の限られた時間を使って自分は「消費」しているのか、「蓄積」しているのか、「生産」しているのか。振り返ってみて「消費」の時間が長いように感じられるのであれば、その瞬間から自分は変わらなければならない。人生は消費するだけには長すぎるのだ。


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