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距離の作用。

日々の生活を続けていると、だんだんと毎日に予想がつくことが増える。朝起きて、仕事に行って、大体顔を合わせる人は決まっていて、そんな人たちとのリアクションもなんとなく想像がついて、家に帰ってひとりの時間を過ごす。そして大体同じ時間に眠って、また明日を迎えて、私は着々と30歳へと近づいてる。平成も終わるというのに、30歳は重みがあるよと言われてるのに、特に節目めいたものなど感じることなく日々が過ぎる。

そんな毎日に対して、私の行動パターンにも傾向と対策めいたものが登録されている。対象物との距離感も大体読めてるつもりでいる。だから、そんな風に過ごしていると、時々思わぬ距離感に心拍数がぎゅんっ!と上昇してしまう。遠すぎて意識さえしてなかった人が急に至近距離で現れて、「おおーっと、準備不足なんですけどー!」と慌てたり、だけどすごく嬉しかったり、はたまた距離の近さにかまけていると気づいたらすごく遠のいてたりね。あーまた私、自分だけの世界で勝手に暮らしちゃってたなあってなる。

パラレルワールドってよく聞くけど、パラレルどころか、私がタラタラ過ごすこの一瞬、ハイッ次の瞬間って、私のいないほとんどの場所で何かが起こっているこの現象に戸惑う私です。他の世界を生きてる自分なんてどうでもいいよ。それより時々深刻だと思うのは、私が体感している世界は、水と一緒に手のひらから取りこぼしてしまう米粒より小さいってこと。

相手を思いやる想像力を持って、なんて難しいんだよなあ。メールに光る「大丈夫」を信じていたら、その裏側には、たくさんの時系列が凝縮されていたことを後から知って、自分の間抜けさに唖然とする…なんて時ありますよね。

淡々たーんと気を抜いていたら、あっという間に自分の世界は狭まってしまうから、時々は私の世界人口の点呼をとらねばならん。そして私も誰かの世界の点呼にはきちんと応じよう。大事な人の大事な時に、私がきちんと作用する存在であること。そういう時にきちんと動けるようにならないと、自分の世界は米糠よりちっちゃなホコリになりそうだ。


2018年06月30日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。