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幻影

妖怪や怪談や怖い話的なものが大好きなのだが、実際のところは幽霊の類はあまり信じていない。

信じていないというか、本当は「いないで欲しい」かな。なんていうか、死んでからもいろいろ考えたり、彷徨ったり、かと思えば一つの場所にくっついてしまって離れられなかったり、挙句の果てには生きている人と接触しなければならないとか、そういうことがいちいち面倒くさそう過ぎて、頼むから幽霊とかいないで欲しいと思う。自分が幽霊になってしまったときのことを考えると、面倒な割には暇そうな感じがしてうんざりする。死というイベントは、「はい。おつかれさま💛」という言葉とともに終了後は何もかもがさっぱり消えてしまうものであって欲しい。輪廻転生とか論外である。

とはいえ、これまでに何度も怖い話的な体験をしているのがまた皮肉で、そういうのは、幽霊の存在を愛する人のところで起きればよいのではないかねえ。幽霊とかいないで欲しいと思っている人のところで起きなくてもいいんじゃないのと思う。

今から振り返ると、解離性障害に特有の自己の拡張や時間の混乱が原因だろうなというものもある。

例えば、大地震の後、何もかもが失われた人気のない暗い夜道を歩いたときに感じたたくさんの人影は、自己の拡張だったような気がする。普通ではない景色におかれたことをきっかけに、「普通であれば」そこにいたであろうたくさんの人の幻影を作り出してしまったのかもしれない。感じた人影は、全て自分自身の影だ。ただ、彼らは、そのそれぞれが同じ場所にただずっと俯いて佇んでいるので(ル=グウィンのアースシーシリーズの舞台の一つ、石垣を越えて下ったところにある死者の国みたいな感じ)、自分自身の影だとは気づかなかったという話。もちろん仮説だけど。

実際に起きる出来事が数日前にわかっていたということも一時期頻繁に起きていて、これは時間の混乱が原因ではないかと思う。解離性障害が酷かったらしい10代の後半に集中しているし、その出来事を見るのは眠りから覚めようとしたときだけだった。それに、予知夢だとわかるのは、実際にその出来事が起きたときで、夢を見たそのときではなかった。デジャヴやジャメヴの変形なのかもしれない。

でも、今考えても説明ができないことも、あるのはある。

祖母が病院で亡くなる少し前、祖母の部屋にある物がひとりでに大きく動いているのを見たのである。そのとき、家には自分だけがいて、家族は病院にいた。亡くなったことは、病院にいた家族からの電話で知った。

物が動くのを自分はただ淡々と見ていて、無数の人影のときのような怖さは何も感じなかった。

後でその話をしたときに家族は、祖母に関係のある人が迎えに来たんだよ、と言ったけれど、人の気配は感じなかった。

あれは一体なんだったんだろう?


自分自身の影に人の気配を感じるのであれば、人の気配のしないその何かは、本当に祖母を迎えにきていたのかもしれない。その考えは、悪くない気がする。


いつか必ず来る自分のときは、ある時間を一緒に過ごすことができて、でも先に亡くなってしまった鳥や犬たちが迎えに来てくれるといいな。そして、彼らのおつかれさまとの言葉とともに何もかもがさっぱり消えてくれれば、それに越したことはない。


幻影は残さず、無に還るとよい


8月のこの季節だからか、そう感じる気がする。