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マイムマイムと一人キャンプファイヤー

 読者諸君はマイムマイムを上手く踊れるだろうか。筆者は壊滅的なリズム感と運動神経で全く踊ることができない。中学生の時の野外教室で強制的にクラス全員でマイムマイムを踊らされたが全く踊れてなかったことを覚えている。それで恥ずかしい思いをした。だからマイムマイムを強制するのは良くない…!と、思うかもしれないが、筆者は逆の立場である。学校の先生は生徒を差別することなく全員に同じようにマイムマイムを踊ることを強制させた。それを支持する。おかげでみんなが遠くでマイムマイムを踊っている中、一人キャンプファイヤーをやらなくて済んだのである。

 一人キャンプファイヤーとはキャンプに行ってみんなが楽しそうに花火だとかマイムマイムをしているのを尻目に、それに参加することを恐れ、嘲り、一人寂しくキャンプファイヤーの火を弄っていることを指す。陰キャな読者諸君の中にも陽キャの催しに参加して、陽キャがワイワイしているのを尻目に一人孤独の世界に逃げ込んだ経験がある人はいるのではないだろうか。もちろん筆者もそんな経験がある。

 それは小学生か中学生の頃だったと思う。父と父の会社の同僚、その家族とキャンプに行ったことがある。筆者は当時から世間に対してどこか冷めた目で見るような性癖の持ち主であった。だから大人たちがお酒を飲んで楽しそうに談笑し、子どもたちも恐らくジュースを飲んでゲームをやって、花火をやっている中、自分のテントの側のキャンプファイヤーの火をつついて時間がすぎるのを待っていた。その時は特に悲しいとも寂しいとも感じてはいなかった。ただ、そういうみんなでワイワイする中に入っていく勇気と度胸がなかったのだ。どこか怖くて逃げ出したいという気持ちしかなかった。
 今思えばいくらなんでもコミュ障すぎると思うのだが、筆者にはキャンプファイヤーしか居場所がなかった。というよりキャンプ場に居場所がなくて、キャンプファイヤーを突くことで時間が経つのを待っていたという方が正しいかもしれない。
 こういった性癖が出るのはなにもこのキャンプに限った話ではない。大勢でやる催し全てで似たようなことをしていた。結果として後の人格形成にマイナスの影響を与えたと思う。

 マイムマイムの話に戻るが、もし、先生が「マイムマイムはやりたい人だけがやればいいよ。やりたくない人は自由に何をしていてもいいよ」と言ったとしたらどうだろうか。恐らく筆者はマイムマイムに参加せず、一人キャンプファイヤーをやっていただろう。そうしてタダでさえ世間離れした性格の持ち主が、更に世間離れするようになってしまうことは容易に想像できる。筆者の性格は更にひねくれ、クラスで友だちを作ることからも逃げ、誰とも関わることなく中学生活を送っただろう。無理やりマイムマイムに参加させられたことで、筆者はクラスメイトとしての地位を保つことができたのである。

 最近はツイッター上では、「個々人の選択の自由が最も大事である」という価値観が強い。ツイッターに限らず、実社会においてもそうだと思う。例えば、田舎に帰省したアラサーの女子が親戚に「あなたいつ結婚するの?」などと言われたことに対して、「結婚するかどうかなんてわたしの自由じゃないか!それをとやかく言われる筋合いはない!」などと怒りのツイートをすれば、RTとfavをたくさん稼げるだろう。それくらい個人の選択の自由は大切なものとされている。
 確かに選択の自由のない社会は息苦しい。学校、大学、就職先、結婚相手、居住地、趣味…etc、これらに選択肢がない社会はクーデター間違いなしだろう。
 だが全てが完全に自由であったら、これら全ては能力(知能、容姿、対人能力、運動能力…etc)の勝るものが好き放題できるが、能力のない人は雀の涙ほどしか何も得られない。完全に自由な社会は一部の人間に全く選択肢のない生活を強いることでもあるのだ。
 だからこそ筆者は完全に自由な社会ではなく、ある程度の制限のある――制限と言っても人権を侵害するようなものであってはならない。それは価値観であったり宗教のような生活規範であったりそういうものであるべきだ――そういう社会が望ましいと思う。

 一人キャンプファイヤーは一時であればなんとも思わないかもしれない。しかしそれが生涯に渡ったとしたら、その人は間違いなく不幸であると筆者は確信している。そして、完全な自由は一部の人間に一人キャンプファイヤーを押し付ける結果になるのだ。

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