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ある社会学者の油津訪問

1998年10月29日、NHK教育テレビ ETV特集 『海を行く(4)黒潮の浜の大網引き宮崎・油津で復活した小さな祭り』では、宮台真司が油津の港を訪れ、漁船に乗り、船酔いをしながら、漁師の暮らしを体験したドキュメンタリーであった。録画映像がどこかにあると思うが、当時紹介されていた文字起こしをコピペしていたので、こちらに紹介しておく。

vol.1 油津の人々

 僕はもうじきNHKのETVでやる「海を行く」という4回シリーズの1回を担当するので、宮崎日南市油津という漁港を取材した「寄せては返す日々」という番組の取材で先日2泊3日で日南市油津に行きました。

 油津というところは、日南の小さな漁港。特徴点がもしあるとすると、漁師さんの数が約80人いるのね。だけど大体50人が遠洋船のマグロ船に乗ってて、マグロを追いかけているから、(油津には)いないわけだよ。残り30人が、沿岸の近海の小型船の漁師さんをやっている。マグロ船に乗って遠洋に行っている連中は、比較的若い人が多いのね。30代、40代がいるんだけど。近海の小船に乗っている漁師さん達は、平均が59歳なんだ。要するに、平均で60歳。上はもう70歳くらいの人もいる。一番若い人でも35歳、でもそれはただ一人ぽつんといて、大体が50代後半から60代前半くらい。普通でいったら会社を引退するようなおじいちゃんたちが、漁師をやっている。

 この近海の小型船の漁は、今回取材した8、9月はトビウオの漁なんだけど、大体季節によって代わって、10月からになると、お正月のマグロになったりとか、一年で3~4回代わるのね、対象となる漁の魚の種類が。

 漁も、大体主に2つのやり方で行われてて、一つは「トロール」と言って、船があると船の両側に羽根のように大きなサオを出して、サオに釣り針を出して、船で走り回って釣る。これはマグロやカツオを捕るときのやり方ね。

 もう一つは、トビウオとかを捕るときなんかは、「はえなわ」って言って、タコ糸というか、ナイロンでできた細い糸に、何十センチおきにかぎ針がついていて、それにイカのえさをつけて、ずーーーっと、長い場合には1キロくらい繰り出していくわけね。大体100メートルおきに、浮き代わりにタケザオをつけて、だから旗が海の上にポンポン、と次々立っていく、そういう漁をしているわけ。

 まず印象的だったこと。嵐。大雨洪水雷注意報、一部警報が出ていて、九州地域全域的に大荒れだったんだよ。台風が行った後の大型の低気圧が来てて、すごかったよ。

 水曜から木曜にかけての夜、夜中の3時に船に乗って、翌日の昼に帰ってくるという計画だったんだけど、もうメシ食ってるときにすっげえ大雨になりだしてさ、スタッフの皆で「これは大丈夫、中止だろう」「やったー、うれしいなー」ということになったんだけど。だって大変そうじゃん、夜中の3時までなんて。

 そしたら、スタッフが漁師のおじいちゃんに電話して「今日はもうこれじゃ無理ですよね」と言ったら、「いや、全然大丈夫」とか言ってて(笑)、えー、まさかぁー、って。 それで夜中の2時50分に起きて、バーっと支度して3時頃港に行ったら、大雨なのにちゃんと船が待ってて(笑)、「げー、行くんだ…」と思った。「取材できるんだ」と思ってすごく暗澹たる気持ちになったのは生まれて初めてだったよ(笑)。

 船に乗りました。すごい雨です。風もうねりもすごいです。雷が鳴ってます。ものすごい稲妻が空をピカピカ。僕も、スタッフも酔いました。僕は3~4回げーげー吐きました。すごい苦しかったー。はっきり言って。

 最初は怖かったよ。揺れるし。

 台風とか、そういうひどい状態になったら(漁を)禁止するんだけど、いわゆる東京で言う大雨とか、やや海が荒れているという程度は、全く問題がない。

 「雷、落ちませんか」って言ったら、「落ちたことないから大丈夫」だって。多分、落ちないかもしれない。というか、海は塩水だから、電気の良導体でしょ。だから海原にバンバン落ちたりすると思うし、こう、うねってるから、船よりも高いところって波の中にいくらでもあるしさ。…というふうに自分で納得したんだけど、でも時々海に雷が落ちてるからさ。

 でも、ブームマイクっていう高い金属の上にマイクつけたやつを持ってる人がいて、「(雷)落ちるのは真っ先にお前だよ」とか皆で言ってて…とてもしゃれになってなかったんだけど(笑)。でもちっちゃな5トン漁船だからね。もし雷落ちたら皆一度に死んじゃうから。ただもう、そういう状況になっちゃうと面白いことに、怖くないんだけどね、あんまり。腹が据わっちゃって、おまけに酔ってげろげろだしさ。

 でね、真っ暗じゃん。真っ暗なんだけど稲光がすごいから、時々見えるんだよ。そうすると、他の漁師さんもいくつか出てるんだね。他の漁師の船も見えたりして。そこでガーッとはえなわを繰り出して巻き上げるっていう。巻き上げるのを「あげなわ」「うちなわ」って言うんだけど、縄を打って、それを上げていくのね。

 シイラとか鮫が、船の周りを回ってて、トビウオのかかった縄を上げたときに途中で食いついて奪い取っていくわけ。別に「怖い」とは思わなかったけど、「ああ、体重100キロ以上あるな」とかさ。平気なんだろうな。

 稲光にバーッとその(漁師さんの)姿が照らし出されるんだけどさ、すごく神々しいというか…格好よかったです。丘(陸)の上で見たときは、ただのデカパンみたいなおじいちゃんなんだよ。あまりにオールマイティの、何だかすごく全能の力を持った人に見えてね。

 普段は、気前がいいという感じかな。何か話を聞くたびに「ハイ、おみやげ」って。全部お魚なんだけど、くれてね。でも、漁師ってみんな、こっちの方が向こうにコスト払ってもらってるのに、皆すぐお魚くれるんだよ。市場を取材してると「ハイ」ってザルごとくれたり。「いや、ちょっと…」とか言うと、何か勘違いして袋に入れてきて、「これなら持って帰れるでしょう」とか(笑)「いや、持てないって意味じゃなくて、困るっていう意味なんだけど…」(笑)、でもしょうがないからホテルに全部もらってホテルにあげてたけど。

 気前がいい、ていう特徴があるよ。そんなとこかな。体格なんかも、全然普通にしか見えない。ただ、色は日焼けして黒いし、シワがやっぱりすごく濃いよね。本当に、50から70までの間の人は、年齢が分からない。70の人も、50の人も、60みたいに見える。それはすごく興味深かったです。年が全然分からないんだね。

 船に乗った印象は、最初はそういう印象でした。でもね、思ったんだけど、一回乗っただけじゃん、一晩。でも、すごくドラマチックだと思っちゃったわけ。当たり前だよね、知らない世界だから。大体その気候もすごいし、そういう中で漁をしているのもすごいしさ。

 だって、そのおじいちゃんはまだ60前なんだけど、同じことを70代のじいちゃんもやってるわけだよ。働く時は大体12時間働くんだけど、夜中の3時から働き通しだよね。ハエナワを打っては巻き上げて、ハエナワを打っては巻き上げて…。忙しいよ。でも、全然平気なんだね。それで終わって、陸に上がってきても全然疲れた様子がなくってさ。こっちはスタッフも含めてへろへろだからさ、「何で大丈夫なんだろう…?」ってことはすごく驚きだった。

 あともう一つその体験でアレだったのは、僕らの乗った船の漁師さんが、不作だったのね。普段の5分の1も揚がらなかったらしくて。それで「何で今日は不作なんですか?」って聞いたらさ、「今日は南風だからなぁ、トビウオは南風を嫌うんだ」って。「あと、雨が降ると、真水が海上にくるから、トビウオはその水を嫌って海に潜るから捕れないんだね、南風と真水が原因だよ」って言っていて、「ああ、そんなもんか」と。

 これは翌日の市場のとき分かったんだけど、他の船が、たくさんトビウオを捕っているんだよ。「あれ?昨日、不作だったんじゃないんですか?」と言ったら、「いや、いつもの場所は不作だったけど、5マイル沖に出たら結構たくさんいて、みんな豊漁だったよ」って言われたのね。

 僕が乗ったのは広若さんという人の船だったんだけど、「広若さんの船は不漁だったんですけど…」と言ったら、「イヤー、それは多分沖に出ないで途中で帰ったからだよ」って。普段だったら12時くらいまでやるのが、10時半くらいに港に帰ったのね。それで「ああ…」と思ったわけだよ。つまり、おれたちが酔ってへろへろになってるから港に返したわけじゃん。「魚が捕れないから港に帰るべ」とか言ってさ。でも実際違ったんだよね、全然。魚は5マイル沖に出たら捕れたわけだし、広若さんは漁業無線でそのこと知ってたわけだよ。皆絶えず連絡取り合っているわけだから。方言で連絡しているから全然何言ってるのか分からないんだけど。

 でも、全然言わないからさ。「酔ったから港に帰ろうか?」とも言わないで、「不漁だから帰るべ」と言って。

 そういうのもすごいなぁ、と思った。何も恩に着せないでしょ。カッコよすぎる、と思った。

 あと面白かったのは、明け方の真っ暗な中に、嵐だったんだけど、陽が出るところだけが、雲がぽかーっと開いて、遠くにスクリーンみたいに四角く、明るい窓が開いたのね。そこに夜明けの光が射して…。それが映画館の向こう側にスクリーンがあるみたいに本当に見えて、「おおーっ!」みたいな感じ。今まで見たことのない光景だからすごくびっくりも、感動もしたんだけど、そういうのも含めてすごいものがいっぱいありました。

vol.2 うらやましい

 おれは一日の経験だけどさ、毎日似たような経験しているわけじゃん。それもすごいなって思ったし、あとやっぱり、どこでやったら何が捕れるっていうことは、いくら経験を積んでも不確定なわけじゃん。全部試行錯誤でやってて、でも当たればどーんと魚が捕れて、手ごたえがある。ダメだったらダメで、今日はスカだった、というのもあるわけじゃない。

 まあ、狩猟民族は皆そうって言えるけど、それもなんか、いい感じがした。

 つまりね、全体としてはっきり言ってちょっとうらやましい感じがしたんです。その船に乗った経験を。そういう手ごたえのある仕事っていうのは、なかなか難しいよね。僕のモノ書きの仕事にも確かに似ているところがある。

 サラリーマンつうのはさ、例えば「~の企画をたてろ」といって、企画を立てて成功したかどうかは、しばらくしないと分からないし、成功しても成果は会社や上司に持っていかれちゃうから、自分がやって自分が成功して、それが自分のものになるという経験を持たないじゃないか。すごく「間接化」されてるよね。見えない、延期されてる。遠隔化されてるよね。だからダルいと思う。

 だからそういう意味で言うと、僕たちにとって遠隔化(間接化)されてるはずのものが直接性を帯びて身の回りに存在するから、それがやっぱり、すごくうらやましいという感じがしたし、凡庸な言い方だけど毎日やりがいがあると思う。

 それはね、漁師さんたちに聞いても、やっぱりそれは言うわけ。油津の、30人の近海の小型船の漁師さん…僕たちが乗ったのはその小型船組合の組合長さんである広若さんの船に乗ったんだけど、広若さんもそうなんだよ。20代までは東京生まれ・東京育ちで、お父さんが元々漁業をやっていたんだけど、漁業をやめて、東京に行って会社を興そうとしたのね。その時に東京に生まれた人なの。20代まで東京にいたんだけど、お父さんがいち早く田舎に帰って漁業を始めて、そのお父さんが病気で倒れちゃったのね。その時に、迷いに迷った上で、(油津に)戻って来たわけだ。

 そういう人がとても多くてね、小型船組合の半分ぐらいがそういう感じの人なわけ。 その理由としては、一つは、世代の問題があるかもしれないね。つまり、50代の人というのは、団塊の世代よりも一つ上くらいの人だと思うんだけど、そういう人は大体そういうのが多いわけ。多分、都会に対するあこがれが強かった時代じゃないか。1960年代というのは、金の卵とか言われたし、都会の景気もよかったし。

 出身はいろいろで、油津の出身の人もいれば、油津の近所の日南市、あるいは更に宮崎県の沿岸の他の町の出身の漁師さんもいるんだけど、その多くが、成人になってからも、まあ要するに一回都会に出て、サラリーマンをやった人が多い。広若さんもサラリーマンをやっていたし。それから、島田さんという人は、何と51歳まで日南市の役場で役人をやっていたんだよ。まあ、他にもそういう人が何人かいるのね。だから、出戻り組だよね、本当に。

 そういう好景気とか、都会へのあこがれの強かった時代に町に出て、大体オヤジが病気になったとか、倒れたとか、死んだとか、その時に、船とか様々な網とか、そういう資源があるじゃん。それで「後を継ぐのか継がないのか」という選択に直面して、結局ふに落ちないまま戻ってきたという感じの人。

 でもね、広若さんも、やって3~4年するうちに、「こっちの方がいい」って、やっぱり思うようになった。さっき行った島田さんという役所の人は、元々釣りが趣味だったということもあって、年金って勤続20何年くらいしないともらえないんだけどさ、勤続年数勤めあげて、「漁師になろう」って。「漁師の方がやりがいがあるから」って。

 広若さんは、逆にある程度時間が経ってからやり始めたから、「こりゃやりがいがあるな」って、やっぱり思うようになるんだね。それは、漁師さんの言葉では、「全部、人を頼らないで自分でやるところが面白いところだ」「人に頭を下げないで済むというとこも、この仕事のいいところだ」、と。だから、全部自分しか頼りにならない世界だから、皆と協力して何かやってりゃ捕れるとか、収穫があがるとか、そういう保証が全くない。あるいは台風が来れば皆同じくらいに被害を受けるということもないわけだよ。

 だから、一応ルールで、漁場は教えあうことになっているんだけど、お互いはライバルなんだよね。だから、「あの人は捕れて、こっちは捕れない」とか、そういうことばっかりなわけ。

 漁法も、皆実はトロールやってる奴もいれば、ハエナワやってる奴もいる、ハエナワも実はいろんなやり方があって、それぞれちょっと違うやり方でやってるのね。そういう意味で言えば、ちょっと農村共同体の「皆おんなじ」的共同体主義っていうのが、全然ないんだな。

 でも、仲間うちで険悪にならない理由は、やっぱり、お互いライバルだけど、共同利害があるわけ。それは、「漁業権」というものを他に対して守らないと、他の町の漁師の人達に持って行かれちゃったりとか、漁場を荒らされちゃったりとかするわけ。あるいは、ライバル同士だから、おきてを破らないと決めておかないと、侵害しあっちゃうわけ。微妙なわけだよ。

 例えば、漁師の数は油津の中でこれからもどんどん減っていくわけだよ。減っていけば困るわけだろ。と思いきや微妙で、減ると縄張りが増えるから喜ばしいという面も、正直言ってある。でも減れば、漁師の数が減るということはさびれるということ。だから、そこは、「数が減ると困りますねぇ」「うん、本当に困ったもんだ」というふうに皆ならないっていうのが、農村と違うところなんだよねー。大分違う。

                     ★★★ヽ(´ー`)ノ★★★

 まず、いくつか整理するけどね、最初の方に言った問題、「出戻り組」という問題が一つある。あともう一つは、農村と漁村の違いということも随分思った。

 そのことと両方関係あるんだけど、僕は「意味と強度」ということをずっとやっていたじゃないか。

 こういう時代になったせいで、ああいうところで漁業をやっているという意味がすごく変わってると思うのね。その辺のことを順次話したいと思うんだけど。

 今回のこの番組は、実は油津の、十五夜の「綱引き祭り」という祭りを取材する、これがメインなんだよ。それはどういうことかというと、僕はこう思う。個人に着目すると、出戻り組が多いだろ。このお祭りも、実は1962年から81年まで、19年間中断しているのね。要するに、お祭りも、出戻りじゃないけど、要するに復活したお祭りなんだよ。復活して約17~18年経っているという感じなのね。

 両方に共通して、単なる共同性の自明性の中に浸っているというんじゃなくて、「選んでる」という感じがすごくするのね。お祭りも漁業も、敢えてやっている。

 その辺が、僕にはすごく感慨が深かった。

 多分この番組の柱はね、「敢えて」ということだと僕は思ったの。「敢えてやる」、ということ。敢えてやる理由は、まずその個人が漁業をやるという点について言うとね、やっぱりさっき言った直接性、手ごたえということだと思う。自分たちのやっていることは金にはならん。実際金にはならんのね。大体、船を出すだけで7000円のコストが一回かかるんだけど、水揚げ高が3万円しかないんだよ。そうすると手元には2万円ちょっとしか残らないんだよ。大体25日出るとしても、売上で50万になるかならないか。大体さ、子供3人くらいいるんだけど、年収600万だぞ。それで、ものすごい重労働だよ。尚且つ、けが、遭難などのリスクがすごくあるし、これから漁業資源は先細りだし、近海も含めてマグロの総量規制というのも始まろうとしているし、とてもじゃないけど先行きが明るいとは言えない仕事だけど、でもやっぱり、手ごたえがあるんだよね。

 「漁師の仕事は面白い」と、皆はっきり言うわけ。僕は思うんだけど、昔だったら、金がもうかるのにね、別のことをやったら、例えば、同じ漁師でも、遠洋のマグロ船に乗ると、お金がもうかるんだよ。昔だったらそういうのにわざわざ背を向けて、自分でちまちま小型船を動かしているのっていうのはすご対抗的で、ナンセンスで愚かな振る舞いに見えたと思うんだよね。

 でも、時代が違ったんだなーと実感するのは、話を聞いて、愚かに聞こえるどころか、やっぱりはっきり言ってうらやましく聞こえるんだよね。「そうか、こういう種類の仕事、こういうふうにして金を稼ぐやり方があるのか」というのは驚きであると同時に、うらやましいね。

 僕はさ、ちょっと自分の仕事のことを考えたんだけど、まだサラリーマンやったり、今なら今教員をやったりするということに比べると、漁業は一回一回、一日で完結する仕事じゃないか。まあ、モノを書くというのも、ややそういうところがあるよね。一回一回、その一回について成功や失敗ということがわかる、というのは、まだ自分はラッキーな仕事をしてるかな、と思ったし、そういう意味では「手ごたえを楽しむ」という態度で仕事に関われば、それはちょっと漁師っぽい仕事なのかな、と思った。

 (おれ:でも結果が出るまで待つことになるからちょっと間延びしますね)

 そこは残念だよね。でもね、おれ、書いてて思うんだけど、モノを書いた時点で、うまく書けたか書けないかというのは、自分がよく分かるんだよ。で、自分が思った通りの反響しかこないよ。おれが成功したと思うものはやっぱりいい反響だし、おれが失敗したと思うものは悪い反響で、狂うということは今まで一回もないから、予測できる。

 (おれ:それはちょっとつまんないすね)

 そんなことないよ。いいモノを書こうと思って書けるもんじゃないもん。偶発性があるから。一生懸命頑張って、「ああ、よかった、今回はたまたまうまく書けた」「たまたまうまくいかなかった」っていう。そういうもんなんだよ。うまく書こうと思ったから書けるもんじゃないから、それは漁と同じで、「今日はいっぱい捕ろう」と思ったから捕れるもんじゃない、というのはよく似ているのね。ただ、反響は確かに遅れるけど、手ごたえというのは反響とは別に、自分でやったことを自分で読むから、それで自分で読んだ時に手ごたえがあるわけよ。「書けたな」とか「こりゃだめだ、スカだ」とか。特に、翌日読んだらはっきりするよね(笑)。

 そういう意味でね、そういう「直接性」っつうのは、一つキーワードなのかな、と思った。

vol.3 存在意義としての祭り

 もう一つ、祭りのことだけどさ、祭りが元々、なぜ1961年をもって中断されたのかというと、当時丁度好景気で、皆どんどんマグロ船に乗るようになったせいで、漁師さんが港からいなくなっちゃうんだ。そのせいで、丁度10月の十五夜の時に祭りがあるわけだけど、10月ってマグロの季節だから、祭りの担い手がいないんだよ。漁師のお祭りで「綱引き祭り」って言うんだけど、沖縄から九州にかけて、伝統的に漁師町に存在するものらしいんだけど。その綱引き祭りは、したがって漁師がやる祭りなんだけど、漁師が港にいなくなったせいで、祭りの担い手がいなくなって、つぶれるわけだ。

 ところが、1981年に復活した。復活させたのは「丘の人」と言われる、地元の商店街の人達なんだよね。その商店街の名前が「一生会(いっせいかい)」と言うんだけど、面白いことに、地元の商店街の人達も、かなりの人が出戻り組なんだよ。一回都会に出て、後を継ごうということで戻ってきた人達なのね。やっぱり50前後、団塊の世代が中心なんだ、基本的には。その親の代、大体70代を中心とする人達を、「一母会(いちぼかい)」と言って、違う集団を作っているのね。出戻り組の人達が「後を継げ」と言われてイヤイヤな感じで戻ってきて、例えば向こうでレストラン経営しようとしてレストランで修行してたり、ホテルで修行してたりとかしてる人達が戻ってきて、仕出し屋を継いだりとかしているわけだよ。

 そういう意味では漁師と似た構造が元々あるんだけど、この人たちが「一生会」を1981年に結成した時に、単なる酒飲み会はバカバカしいからやめよう、何かやろう、ということで、20年近く中断されていた漁師の祭りを復活しよう、と。

 それはどういうことだったのかと言うと、元々は地元の商店街は、観光地じゃないから、漁師相手に仕出し、弁当売ったりとか、あるいはいろいろな部品を売ったり、漁師相手、というのがあったわけね。でもマグロ船で漁師たちが遠くに行くようになってから、漁師相手に仕事できないから、日南市とか宮崎市全体を消費市場として考えるような産業に変わっていくわけよ。漁師相手の弁当屋は仕出し屋になって、例えば日南や宮崎のいろんなホテルで会合があるときにはそこに全部弁当を出すような仕事に変えていったりとかするわけだよ。

 その結果、やっぱり海の人と丘の人の間に、完全に交流がなくなったんだって。交流がなくなると、漁師は元々、いないわけじゃん。近海の漁師だって、生活時間めちゃくちゃ。夜中の3時に出て、翌日の12時、1時に帰ってきて、陸揚げしたらすぐに寝ちゃうわけだからさ。

 だからそういうことで断絶している漁師との関係を復活させるチャンスになるんじゃないかと同時に…元々漁師の町なわけだ、油津というのは。だけども、そういうふうに漁師との関係が切れてから、「油津」という町に住んでいる意味というか手ごたえが、全く失われているから、お祭りというのをテコにして…まあ、凡庸な言い方をすれば「町おこし」なんだよね。ただそれは、観光で人を呼ぶとか、金をもうけるというのではなくて、完全に自意識の問題なわけ。おれたちが、どういう町にいるのかということを確認するために、やっぱり祭りは必要なんじゃないか、ということで漁師を説得しに行って、漁師たちも「是非そういうことだったらやりたい」ということで、ちょうどこの季節、太い縄を、漁師さんたちが疲れきって帰ってきた後、自分たちで…力がないとできないんだよ、縄をなうという仕事は。で、その縄を作っているわけね。

 だから、それもすごく僕はいい感じに思えたわけ。つまりさ、町起こしで金をもうけるとか、物語を作るとか、そういうことじゃないんだよ。皆で一緒に祭りをやるということが、油津という町とつながる唯一の回路なのね。存在意義なの。でもそれが祭りだっていうのが、たまたま僕が『ダヴィンチ』で、「祭りは強度だ」と、書いたじゃないか。やっぱりそういう、たまたま僕が書いていたこととも、すごく結び付く。だから、物語とか、意味とかいう感じじゃなくて、「一体感」なんだよね。ある種の体感を取り戻そう、という感じ、それが必要だということを、皆痛切に感じているわけ。だから、議論じゃない。皆祭りをやって、一緒に綱を引く、と。昔は漁師たちだけが関わっていたけど、そこで商店の人達も一緒に綱引きをする、ということを通じて、祭りが終わった後、朝まで漁師と町の人が飲み明かす。そのことが意味があると考えて、祭りを復活するわけだ。

 だから、完全に観光じゃないよ、誰も見に来ないわけだし。地元の人だけのものであるわけね。そのことが僕にとってはとても感動的な気がしたのね。

 個人も出戻りだし、祭りも復活だし、その「選び直す」という契機が両方にあると言ったけども、両方には同じような困難があってね、例えば、漁師はもう跡継ぎのなり手がほとんどいないんだよ。今一番若いのが35で、もちろん平均が60前後だからさ、息子は大体20代、30代くらいじゃないか。だれも今のところは継がない。30より若い奴で継ごうという奴はいないし。聞いてみると、継がせたい、とは思ってるんだけども、それは言えない、と。なぜかと言えば、それこそ「意味がない」からだよ。金ももうからない、安定性もない。立身出世も、これから未来が明るいということもない。頑張ったら将来見返りがあるということも、ないんだよ。

 つまり、世間的に言えば、意味がある仕事ではない。マイナスのファクターはいろいろあるよ。不安定とか、金がもうからないとか、肉体がキツいとか。だから、とてもじゃないけど、言葉で「漁師の仕事はいい仕事だから継げ」とはとても言えない、と。

 そういうことは言えないから、継いでくれたら楽しいしうれしいと思うが、自分からは言えない、と、皆言うんだよ。

 それは、漁師さんの美学でもあると思うんだよね、それは。だからおれは今回の番組も含めて、「でもこの仕事は面白い」とか「すごい」という感じがあるわけだよ。というのは、…次の世代がうまく知ることができるようであってほしいなあ、と思うね。

★★★ヽ(´ー`)ノ★★★

 さっき、じいさんが神様に見えると言ったよね。都会にいたらまずないよね、そういうのは普通。あの漁村で嵐の船に乗って、漁師さんの頑張りを見て…ということがあって、分かるわけじゃない。でも、変な話だけど、漁師さんの家族でさえ、息子でさえ、嵐の海に親と一緒に出掛けることはないよね。天気のいい日に、遊びがてら、日曜日とか海に出掛けることは、小さい子供のときはあった。その程度のものじゃないか。

 だから、その部分を、なんかうまく…番組を作るわけだから、油津ということに限らず、こういう仕事がある、と。自分の父親はこういう仕事をやっている、という機能があればなあ…と思うのね。

 すごく面白いのは、漁師さんの多くが、カメラを拒絶するんだよね。「撮らないでくれ」って。あるいは取材そのものを拒否する人がすごく多いの。それは、いろいろ拒否の場面に出会って思ったんだけど、もう直感的と言ってもいいけど、マスコミを含めたある種の情報提供が、自分たちの敵だという感覚がすごくあるのね。

 それはどうしてかっていうことは、子供のことを聞いて分かったわけ。広若さんにも中学生の子供達がいるんだけど、やっぱり皆ファミコンやって、TV見て…ということをやっているわけね。このお祭りも、たまたま「SMAP×SMAP」みたいなものと重なったりすると来ないし、せいぜい来ても、ゲームボーイ持ってくる奴がいるんだって。

 だから結局、例えば子供達に「お祭りは楽しいものだ」と分かってもらいたいと思っても、その漁師さんたちの情報宣伝活動のライバルはTVであり、ゲームボーイなわけで、漁師さんたちの方が負けなわけだよ。これから負け続けるとはおれは思わないけど、少なくとも、ある情報環境に育った子供にお祭りを見せても、楽しみ方は分からないよ。全然分からない。

 だから、そういう場面ではやっぱり、こういう普遍的な、日本全国を覆っているような情報に敵意を感じるというのは、よく分かるじゃない。

 こういう「マスコミ的なものに関わってもろくなことはない」という、アメリカのアーミッシュという、文明を拒絶している連中がいるじゃない。似ていると思うんだよ。そこまでじゃないんだけどさ、アーミッシュほどには排他的でも反文明的でもないんだけど、感覚としては、カメラはだめだ、と。もちろん、一人だけ抜け駆けしていい格好するのは良くない、というのもあるかもしれないけど、それだけじゃ説明できないんだよ。何か、情報を嫌ってる。

 ただ、広若さんという人だけはちょっと例外的で、( )彼の掛けだよね。僕たちの意図もよく分かっていて、このままじゃもう完全に尻すぼみだ、と。だから、自分たちの仕事に世間的な意味で意味があるとか、未来があるということがないから、そういうふうな説得は、次の世代に対しては難しい。

 広若さんが言うのは、「自分たちは、漁が面白いとか、意味があるとかって言わない代わりに、少なくとも漁でちゃんと食える、稼げるという、そういう条件を整えようとして、漁を休む休漁日をもうけるとか、様々なルールをもうけるとか、新しい流通ルートを開通するとか、いろいろ工夫を必死でやっている」と。まあ、工夫してやる、というのは、あんまり漁師さんというのは他人のこととか真剣には考えないから、広若さんのように考えてる人は珍しいんだけどもね。

 まあ、いずれにしても、彼が考えていることは、こういう番組を通じて漁師の生活というものが次の世代に分かってもらうという部分があれば、もしかしたら何かに役立つかもしれない、という感じが、広若さんにはあるのね。

 だからまあ、そういうことをとってみても、結構僕は、感慨深かったですね。

vol.4 手応えを感じるということ


 今ようやくね、「街で生きる」つって東京出てきてもクラブもあるしストリートもあるしダンサーも( )できるし、急速に変わりつつあると思うんだよ。でも、そのことを少し割り引いて考えるとしても、例えばTVを見て、吉本の連中とかジャニーズの連中に憧れて、東京に憧れて東京の大学にして、就職してどっかの会社に入って…という生き方って、やっぱ、輝いてないよね。

 つまり、僕が言いたいのはね、今は過渡期のせいかもしれないけど、僕みたいな大人から見ると、昔は全く輝いていなかったこの街が、バブル崩壊で社会のムードが変わりつつある中で逆転して見えるんだよね。東京とか都会の生活とか、サラリーマンやることとか、情報産業に関わることとかさ、全て昔は景気が良かった時はすごく輝いていたと思うんだよ。むしろ情報から隔離されてることとか、金がもうからないとか未来がないとか、上昇チャンスがないというのは、すごく沈滞して見えたと思うんだけども、都会の輝きというのは、やっぱり景気がよかったからだ、という感じがとてもするよね。

 バブルが崩壊して、まあそれだけじゃなくて背景には「成熟社会化」という、いろんなことがあるんだけど、少なくともまあ、僕みたいな世代の人間からすると、都会はあんまり輝かしくなくなってきつつあるから、やっぱり逆転して見えるんだよね、どっちが輝いているのかということが。

 そこいくと、漁師やってる連中も、そういう世の中の変化のこと,広若さんとか、やっぱりある意味では分かってると思うんだ。だから自分たちが今取材されてるし。

 ただ、何度も言ったように、自分たちが、未来が明るいわけじゃない。完全に先細り。ただ、自分たちが今漁をやって、先が暗いけれども充実した毎日を生きているということは、実はとても大きなアドバンテージではないかということは、直感していると思うんだよ。 だからサラリーマンをやめた人達も、役人やめた人達も、皆「やめてよかった」と思ってるわけだよ。一人の例外もなくさ。

 昔だったら「負け惜しみ言いやがって」みたいに聞こえたかも知れないけど、全然そういうふうには聞こえないよね。やっぱりそういう時代状況が大きく変わっていく中で、昔輝いてなかったものが輝いて見える、というその事実は、やっぱり否めないんだね。

 あと、まあ、単なる共同体主義と勘違いされやすいんだけども、やっぱりああいう祭りの共同性をね、つまり祭りを通じてある種の共同性を復活するということの意味は、とてもよく分かるのね。

 これはなぜかっていうと、いくつか理由があると思う。それはさ、もう自明な共同性じゃないんだよ。もう、一回壊れているものだから、それをその、祭りというものを軸にして、人為的に選び直すという契機があるのね。つまり、自己決定で共同性を選択するという契機があると同時に、「祭り」だということが重要なんだよ。祭りには直接的な意味は何もないし、何も主張しないし、何か意味に人を巻き込むわけじゃなくって、単に暴れる、喧噪の中に身を浸すというね。

 (おれ:その祭りって結構盛り上がるんですか?)

 参加している当人は盛り上がるって。だから、そういう祭りの準備を通じても、盛り上がっているのはよく分かるよ。縄を作ったり、「獅子頭」っていう竜の頭を一生懸命作っているんだけど。

 無意味だよ、はっきり言えば。「何やってんだ、漁で疲れ切ってる漁師さんたちが竜の頭を作ったり縄を作ったり」って。でも、すごく楽しそうなんだよ。

 だから、その共同性の質が、意味よりも強度を、つまり体感とか濃密さとか、そうしたものを中心にしたものだということが、もうやっぱり大きなポイントだと思うのね。

 そういうことが重なるから、僕にとっては、これはすごい…どう言ったらいいんだろう、僕から見たらうらやましく見えるような選択肢を選んでるな、っていう感じがすごくするよね。

 ディレクターたちとも話したんだけど、「モノを書く」という作業もそうだし、TVでも番組を作るという作業もそうだけど、最初モノを書いて、人に読んでもらえる、という、それ自体が手応えだったし、興奮することだったんだけど、2年もしないうちに、何も感じなくなっちゃうんだ、実は。

 自分の書いたモノが人に読まれるなんていうことは、何も感じないことになっちゃったよね。「お前はアレを書いた宮台か」と言われるのが、ウザいよね、かえって。…とさえ思うくらいであって、だから全体として、モノを書くっていうのは意味を紡ぐ作業だから、そのこともあるんだと思うんだけど、そういう作業自身に意味を認めるとか、…さっき言ったことと一見矛盾するように見えるけれども、手応えを感じるということはなかなか難しいことなんだよ、簡単に言えば。どんどん風化していくし、どんどん実感(体感)が間接化されていくわけ。それで結局ルーティン・ワークになっていって、僕もそうだったけど、今回たまたま漁師の取材で、「ああ、おれ体感というものを取り戻すことができないわけじゃないだろうな」と思うわけだけども、ともすればルーティン・ワークで締め切りがやってきて、ルーティン・ワークで書いて、それで自分の書いたものを整理したりしてないで、もうこーんなにたまっちゃってるけど、自分が何書いたかも全然忘れちゃってて…という。そうなるじゃないか。

 で、ごめんなさい、反文明的に聞こえるかもしれないけど、あそこで思ったことは、正直に言うけれども、「意味から強度へ」という方向に今成熟社会が向かいつつある、ということを繰り返し繰り返し言っているけど、で、それはいいことなんだよ。

 そういうベースの中で言うんだけど、つまり今まで…ほら、僕、よく例えば「モノの豊かさも、未来のために頑張るというのも、社会のために犠牲になるというのも必要な振る舞いだった」というふうに言ったけれども、それによって覆い隠されていたものの大きさというのは、自分では、言ってはいたけど、すごく大きいな、という感じがするよね。

 ちょっとうまく口では出てこないけど、…「直接性」だよね。つまり「手応え」。毎日生きるだろ?それで、今日生きたことの手応えはこれだ、という感じって、実は昔の人は持っていたよね。まあ、狩猟民は皆持ってるのは当たり前だ。じゃあ、農耕民はどうかと言うと、農耕民はもちろんタイムスパンずっと大きいけど、林業になるともっと大きいよ、10年、20年というスパンだからね。でも、やっぱり毎日土に触れて、育つのを見ているからね、毎日毎日。畑と言ったって、単に一種類のものを栽培するわけじゃなくて、複数のものをやったりするわけだし。やっぱり、その日やったことの手応えというのはあると思うんだよね。まあ、昔は貧しいからそういうものがあったと言ってもいいんだけど。 逆に言えば、豊かになればそういう直接性から逃げるから、離脱することができる、と言ってもいいんだけどね。

 でもね、やっぱり直接性は、大事だよ。大事。

(おれ:その感覚を取り戻すのに一苦労ですね。)

 一苦労だね。僕は、『ダヴィンチ』に今度書くときにもしこのことに絡めて書くとすれば、やっぱり直接性ってことだよね。

vol.5 直接性への回帰 1

 多分ね、別に自然とかじゃなくていいのかもしれないんだよね。建物を作るとか、土建屋じゃないけど、モノを作るという作業も、そうなのかもしれないよね。

(おれ:ちょっとよく分からないんですが、どうして「モノを書く」ことがダルくなっちゃうのか、もう一度説明してもらえませんか?)

 うーん、それは、自分に対して期待されている役割がもうはっきりしてきて、

(おれ:「宮台だったらコレを言うだろう」とか、ある程度周りの要求が固まってきちゃうという…)

 それも含めてね、もちろん新しいこともどんどん書いていこうとするわけだし、一生懸命努力しているわけだけど。僕はどんどん新しいもの書いてる方だと思うけど、新しいことを書く、ということを続けると、「宮台はどんどん新しいことを書く奴だ」という役割になるわけじゃないか。

 だから、僕が過去にやったものが宮台という役割をどんどん作っていって、相手が、要するに「宮台君、ここに投げてね」と皆ミットを構えているところに投げている、という感じ?だから、「ミヤダイ」と「みやだい」というのを分けたことがあるけど、やっぱり「宮台」がどこにいるのか分からなくなるっていう状況だろうな、実感が消えていく、ということは。

 多分「ミヤダイ」役は「みやだい」にしかできないんだろうけど、でも、そうやって期待の地平がはっきり確立すると、「何でこのミットに投げないといけないんだろう」っていう。「宮台」のイメージが固定されたくないから、フィールドワークの対象も、書くことも、どんどん変えていかなきゃ、と思うことすら、最近ではまたそれを(周りが)期待しているから、「宮台くん、今度また新しいことやるんだよねー」って。

(おれ:行き場所に構えられてる、みたいな…)

 そういう感じ。そういう意味では手応えはなくなっていくという。

 だから、そういう情報産業というのは元々、そういうところがあるよ。だからまあ、それでもフィールドワークの対象を持つとか、具体的にリアクション返してくれる人間と直接話す可能性があるとか、講演活動も、同じこと何度も言うのは嫌だと思って昔は嫌っていたんだけど、自分がその都度書いたことがどういうふうに受け止められてるのか知るチャンスでもあるから、だからそういう意味では僕はまだモノ書きの中では直接性に恵まれている方だと思うけどね。それがなかったら辛いんじゃないかなぁ。

 だから結局、若い奴が職業選択ということを考えるとしても、時々直接性が存在する、つまり手応えをできるだけ遠隔化、先延ばしにしないで、手応えを結構その都度得られる、というタイプの仕事に就くということは重要なんじゃないかという気がする。

 で、おれさぁ、これ(『眠らない女』酒井あゆみ著)、まだ一行も読んでないから分からないけど、酒井あゆみっていうのはちょっとAC系の子だよね、僕彼女と話したことがあるから分かるんだけど。やっぱりほら、向こう(風俗等での客)は性的な欲求を持って来るわけじゃないか。もちろん、その相手の、つまり自分という女の子じゃなくて別の女にだって性欲を発露できるんだけども、何だかんだ言ったって、やっぱり必要とされているじゃないか。だから、タクシーに乗るときに、タクシーが必要だろ。そのタクシーじゃなくたっていいけど、でもお客さんをタクシーで運搬しているときに、そのタクシーは必要とされているわけだから…

 そういう意味ではさ、「このお客さんは喜んだ」とか、「私のことを褒めてくれてる」とかっていう直接性があるよね。そのことは、酒井あゆみも、前に言ってたことがあるのね。「直接性」という言葉では言ってなかったけど。日ごろの仕事に手応えはない、直接性はない、というふうに思っている子たちが風俗に来ると、本当に直接性だっていうことが…

 書いてあるの?そういうことが。

(おれ:後書きの、こことか。)

(注:「私はまた風俗嬢に戻りたいと思っている。世の中の誰からも必要とされずに生きてきた自分が、あの場所では、たとえお金を間に置いたわずか数十分の関係であっても、確かに他人から必要とされていたからだ。(中略)(本書に登場する15人の女性と自分が)唯一共通していると感じたのは、彼女たちが昼間「やるせなさ」と衝突した時の接し方だった。自分の周りには、どうにもならないやるせないことがいっぱいで、そのせいで自分自身の輪郭さえもうまくつかめず、だんだんとボヤケてしまいそうだと感じる。でも彼女たちは、その状態を嘆くのではなく、やるせなさの中からもう一度自分を取り戻すことが大切なのだということを直観で知り、自分で行動をおこすのだ。(中略)やるせなさに押し潰されて消えてしまいそうな気持ちのなかで、どのように生きればいいかと真剣に悩み、苦しみ、辿り着いたのが夜の世界だったのだ。「眠らない女」あとがきより)

 あ、これだよ、これ!これなんだよ、僕が直接性と言っているのはね。このことなの。別に、風俗じゃなくたって、漁師じゃなくたって、他にもいろんなことがあると思うけど、抽象的に言えばさ、この成熟社会の中でどんどん意味の輪郭や物語がボケていくから、やっぱり身体は直接的だからね、ダンスとかスケートとかにひかれるのも分かるよね。車も直接的だろ、車でドリフトするとかローリングするとかっていうのも、とても直接的なことだ。格闘技もとても直接的じゃないか。自分の体を使って、痛みを感じたりしながら…まあ、リストカットとかさ、自分の体をいじるっていうのもとても直接的じゃないか。

 やっぱり、全体として直接性に戻るという動きがあるよね。

 「意味から強度へ」と言うときに、「強度とは何なのか」ということを、具体的に「意味に回収できない濃密さ」とは何なのか、といったときに、それはやっぱり直接的なものということだよ、はっきり言えば。だから、その直接的なものを僕たちがいかに、意味とか物語というものによって目を曇らされる…いいことでも悪いことでもないけどね、それ自体は…そのことによって、忘れちゃってきたのか、ということは、一見反文明的なメッセージに聞こえるかもしれないけども、やっぱり感じるよね。

 特に嵐の日に漁師さんの船に乗って出掛けた時に、こちとら、全然知恵がないわけじゃない。船をどうするのかとか、魚をどうするのかとか、嵐の中でどう振る舞うのか、とかって、何の知恵もないよね。だからもう全部、運を天じゃなくてその漁師さんに任せるしかない。完全に委ねちゃうわけだけれども、その時やっぱり彼が圧倒的な力を持っているように見えるのは、やっぱりその彼が直接性、その極めて豊かな直接性のただ中にいて、僕たちはその中にはいないんだよね。

 例えば、潮目ってあるんだよ。黒潮と沿岸流の境目を潮目って言うんだよね。晴れた日に、「ここが潮目だろ」と言うと、黒いところとブルーのところだから分かるんだよ。でも真夜中の嵐の中で「潮目が分かるか」っていうと、「ライトを海に当てればすぐに分かる」と言うのね。「ここが潮目だ」って言うんだけど、全然分からないわけ。つまりこちらに認識能力がないわけね。どんなに説明されても、「分かるか?」と言われても誰一人分からないわけだ。丘にいる奴はね。

 役割とかさ、権威とかあるじゃん、「僕は電通の社員だ」「NHKの社員だ」「年収3000万だ」って。あーいう場では何の役にも立たないよな。そういう直接性から程遠いものっていうのは、あーいう場面で本当に空虚さを突き付けられちゃうわけじゃないか。と同時に、豊かな直接性の世界を持っている人間のすごさというのもやっぱり、圧倒的に突き付けられちゃうわけ。

 やっぱり…なんじゃらほいって感じになるよね。「おれは社会学のこと知ってるんだ」って言ったってさ、むなしいよね(笑)。その場では。

 直接性というのは、多分そういうことだよね。多分、そういう…まあ、この間自殺したA君(『ダ・ヴィンチ』で特集が組まれた、宮台ファンだった男の子)でもいいけれども、直接性の領域というのを持っていれば絶対に自殺しなくて済んだと思う。

 男の子より女の子の方がなぜ図太くて死なないのかというと、女の子の方が…まあ、今までこういうふうには考えてなくて、そこで初めて考えたんだけど、やっぱり直接性ということに近いよね。それはね、第2次性徴以降ということで構わないんだけども、やっぱり生理があるし、例えば性的な視線にさらされる、というのも、究めて直接的だよね。

(おれ:ああ、男だと性的な直接性にあまりさらされることのない分、キツいっすよ)

 うーん、やっぱりそういうものが遠隔化されてるっていうのは、ものすごく大きなハンディキャップになりうるね。

 ということで、直接性というキーワードも重要かな、って思ったね。

本当はさ、おれ思うんだけど、こういうのって民俗学の研究とも絡むのね。例えば、何で地名が「油津」なのかというのをいろいろ調べると、アビラツ神社というのがあって、アビラツ姫っていう、古事記のお姫様を祭っているところなんだよ。宮崎県の海って、そうなのね。「この花咲くや姫」とか、古事記でいろんな登場人物が出てくる神話が満ちあふれている、そういう場所なの。まあ、九州は全体的にどこ行ってもそうなんだけども。で、どういうわけだか全く由来も分からないんだけれども神事を司る家が決まってて、っていうことがもう今は忘れ去られちゃったのね、ほとんど。全部そういう役割、コスモロジーが決まってて、というのがある場所なのね。宮崎県というのは実際に岡倉が全部山の方に登ってて、日本の比較的民俗文化の古い層が圧倒的に残っている場所だから、民俗学的な見地から多分、こういうお祭りとか油津という町を調べても面白いと思うけど、僕が言いたかったことは、社会学だろ。まあ、僕はまだそういう力量がないけれども、そういう民俗学的な領域と社会学的な領域の接点に、とても豊かな問題があるな、と思いました。

 どういうことかって言うと、今直接性というふうに言ったけれども、例えばある民俗学的な風習とか文化、お祭りの形式とかしきたりとかが残っているっていうことは、お祭りで言えばある種の強度、あるいは人間に即して言えば直接性というのを崩さないための枠組みだよね。絶えずある場所に行けばある直接性、ある強度が訪れるような、そういう環境が整備されてると言ってもいいけども、そういう平衡状態、ホメオスタティックな恒常性を維持するシステムだな、というふうに思いました。

 やっぱり僕たちの文明化というのは、普遍的な意味や意義というものを使って、そういうローカルなコスモロジーを解体していくじゃないか。そこはどこでも言われるところだけれども、そのことによって、やっぱりその直接性とか強度を巡る恒常性の維持メカニズムが、完全に壊れて、壊れた部分が意味に求心化することで何とかそのことに気づかなくさせる、あるいは意味のまぶしさに目をくらませて、恒常性が壊れているということに気づかないことにさせてきたけど、今それができなくなって、何で皆苦しいのか、とか…

vol.6 直接性への回帰 2

雷雨の時にマンションの屋上で避雷針につかまる、みたいなことって、いいよね。

 (おれ:!?…怖いじゃないですか。)

 そうだよ。そういう人間はさ、死にたいとか思わないじゃん(?)。

 それは極端な例だけど、そういうふうにして、やっぱり強度とか直接性というのは、維持されていないと駄目なんだよ。もちろん強度が重要ということは言ってるから繰り返さなくていいんだけど、直接性だよね。うん。それがあまりにも間接化されている。

 だから今、なぜ性がずっとこうやって吹き出してくるのか。90年代に入ってからオウムというのがあったけど、宗教と性が同時に吹き出している感じがする。それは理由を考えれば、全面的な包括、つまり両方とも「こんな私でもいいのかしら」「そんな君でいいんだよ」というところで共通性がある、と言ったけど、やっぱり、性の方に芽がある、と思う、僕は。それは直接性の領域に近いからです、簡単に言えば。宗教は直接性の領域に行こうとすると「修行」ということになる。修行のメソッドが直接的な体感を与えるという形式になると思う。それはそれで全然構わないと思う。

 そういうふうにして問題を整理すると、何と何が機能的で等価なのかということはよく分かってくるから、それぞれの持っているリソースの中で直接性を調達するということ、だから、強度の話の新しいキーワードが直接性なんだな、って思いました。

 「やるせない」かぁー(『眠らない女』を見ながら)。でもナゾがいろいろあってね…

(おれ:その直接性をさ、再び獲得するための手段として何が挙げられると思いますか?)

 宗教の修行、あるいは体を使う様々なもの…サッカー、ダンス、セックスとかは全部体を使う。ボディペインティング、ボディピアッシング、エステ、格闘技…。体がキーワード。後は、暴力、性もキーワード。全部直接的だよね。そういうものです。

 つまり「体感」ということ。恐怖とか緊張とか、暖かい、冷たいというような五感、おいしいとか…こういうものだよね。

 濃密さ濃密さって言ったって、直接性にアクセスできない人間は、濃密さを調達するということはとても難しい。意味にすがるしかなくなっちゃう、と僕は思うよ。

 だから、地域共同体もお祭りも、僕に言わせると手段に見えるわけ。直接性というものを調達するための。で、この祭りは、漁師の人にとってよりも、今回はやっぱり町の人にとって大きな意味を持っているわけだ。町に生きている人が、油津にいるということの意味をつかめないわけだ。

 (人口は)2万、3万という感じ。だから、ある種の地域だから、最大広くとっても5万人以下。まあ、非常に小さい。2万人と考えるといいと思うけれども、漁師は、元々ずっと一日中海に出ている存在だから…

(おれ:その中で30人っていったら少ないですね)

 少ないよー。だから、漁師町と言われる部分はその中の6千人くらいなんだけど。

 あ、つまり、だから日南市が5万人くらいいるわけね。でもその油津の地域には6千人くらいいるっていう感じだけども。

(おれ:その中で、油津地区でお祭りをやるんですよね。)

 そうだよ。参加者は、せいぜい大きく見積もっても数百人という感じ。でもね、これは、やってる側からすると、さっき言ったように、このお祭りはもはや、丘の人にとってのものだよ。で、漁師にとってももちろん意味があるんだよ。でもむしろこの祭りの持っている意味は、丘人にとっての意味だろうと思う。

 それは町にいることのある種の一体性とかね、実存的な体感だよね。これを獲得する源泉、リソースがこの祭りになっているという構図は、とてもはっきりしていると思う。  他に質問があったら聞いて。

(おれ:あのー、この町に住んでいる人達って、素直というか、自分たちで体感、直接性を得ようと、いろいろ努力しているじゃないすか。)

 それは出戻り組が多いからだと思う。出戻り組がいて、自分たちが都会で生活して何が足りなかったのかっていうのを、すごく分かっていると思う。それこそ、「やるせなさ」というものを知っていると思う、皆。手応えがないとか、人にいつも頭を下げて、何のために下げているのか分からない、とか、あるいはなぜここにいるのか、とか、そういうことだね。

(おれ:僕たちは、そういうのを相対化できなかったというか、やっと気づき始めた段階じゃないですか。彼らほど切迫感もないというか。敏感な人は感じ取っているけど、大部分はだらだらやってる感じが、比較してみるととても「負けるなー」と思っちゃいます。)

 それは、おれが思ったよ。だからうらやましい。でもおれはうらやましいと思って、東京に帰って来てよく見てみると、東京にいる奴の中ではうらやましい位置にいると思うよ、それでも。お前もそう。おれの周りにいる奴は、皆マシな方だと思う。東京にいる奴の平均から比べると、圧倒的に。

 あとやっぱり、W君っていたじゃん(自殺したA君の親友)。Wみたいな奴がいっぱいいたよ、はっきり言えば。明晰で、物事をよく見てて、逃避しているわけじゃなくて。でも、直接性…世界といろんな場所でうまくシンクロする回路をいっぱい持っていて…つまり手応えを感じるから毎日生きている感じが、とってもいいねえ。

 やっぱり僕が仮説していた通り、Wみたいな奴は昔はいっぱいいたんだ、ということは、それは分かるよ。ただ油津の場合は、単に昔のままじゃなくって、一回出戻って、あるいは祭りを復活して、敢えて意識してそういう立場を選択しているということが、ありありと分かるのね。

(おれ:先生、昔の田舎の漁師さんにはWくんのような人がいっぱいいるだろう、って言ってましたよね。)

 いっぱいいたよ。でもさ、もう今じゃごくまれなわけじゃんか。だから、これは前途多難さを思わせるものがあるなぁ。

 講演とかするじゃん、いろんなところで。………本当に変わりつつあるなあと思うけど、僕が言う意味と強度の話とかは、もう50、60歳の官僚たちもめっちゃくちゃもう分かってて、びっくりしちゃった。言葉がないからさ、僕が言葉を貸しに行くって感じ。

 そういう意味で言うと、だから、僕たちの方のキツさがむしろ照らし出されているね。向こうがもともとハンディキャップだったはずのものが、今はアドバンテージになっているから…というか少なくとも僕からはそう見えるから。

★★★ヽ(´ー`)ノ★★★
 「(船に)酔わなくなるまでどのくらいかかりますか」とか言ったら、毎日漁をやって、早くて3カ月、長ければ2年だって。

 で、ハエナワを、ちゃんとセッティングして巻き上げるというウチナワあげができるようになるまで、10年だって。

 それで、潮目が分かるとか、いろんな経験を積むということで言うと、それはまあ際限はない、って。毎日の経験が新しいものになるんだって。

 一応潮目があったらば、こういう方向にハエナワをうつということは、大体先祖から教わっているわけだ。でも、もちろん皆違うことをやってみるわけだ。「こういうふうにうたなかったらどうなるのか」という、ありとあらゆる試行錯誤を自分でやって、「あーなるほど、だからダメなのか」って。全部、経験を通じて確証しているって。

 だから僕たち、「潮目がこうだったらこういうふうに縄をやるんじゃなくって、こういうふうにやってみたらどうなんですか」って言ったら、「そんなのは全部やったよ、漁師やってる奴は全てやってみてる」って(笑)。そうやってみて、やっぱりしきたり通りにやるのが一番いいんだって。全部分かってる。単に観念を頼ってやっているんじゃない。 実際に海流がある方向に流れてて、潮目がこうあって、こういうふうに出したらいいじゃないか、と言って出しちゃったら、ハエナワがたるんで絡んじゃったりして、「こういうふうになるから駄目なのか」とか、全部分かるって。

 それも直接性だろ?なあ。例えば、「売春がいけない」とかって言ったってさぁ、例えば「こういう方向にハエナワを繰り出さなきゃいけない」というのと、違うと思わないか?「何でいけないのか」ってのは、売春してみたって分からないだろ。ハエナワだったら別の方向に縄をうっていったら、何で駄目なのかすぐに分かるんだよ。縄が絡んじゃったり、魚が全然捕れなかったりするんだもん。

 昔は、売春が危険だとか、病気移っちゃったりとか、売り飛ばされちゃったりとかいうことがあったからさ、直接性に近かったんだけどな。今はいろんなことが分かんないよな。何でそういうルールになるのかって。

 そういう意味で言うと、漁師の世界というのは、合理的だと思うよ。皆と同じようにするのが退屈だとかゴタク言ったって、捕れなかったら終わりなんだから、やっぱりそれが狩猟文化で…

 で、さっき言ったもう一つのポイントはね、狩猟文化と農耕文化の違いは、漁村に行くとよく分かる。日本は元々共同体主義だけど、漁村は農村共同体とは全く違うということが分かる。

 まず成果主義、結果主義だよ。捕れなきゃしょうがないんだよ。捕れる、というのは毎日の話だから、皆一緒にお互い助け合って一緒に一丸となって頑張って、村全体の収穫が1年後に上がりました、ということはあり得ないんだよ。場合によってはルールを犯してまで、抜け駆けしてまで頑張って、一日「今日は丸もうけだぜ」とか「今日は少なかった」とか、そういう世界。そうするとやっぱり、実質主義、サブスタンスというか、なんて言うんだろう、実利的というか、現実的なんだよ。そういう特徴がすごくある。

 あとやっぱりさ、おれはこないだ広末涼子と話したじゃないか。広末の出身地の高知は、性的にはルーズなんだけど、やっぱりそれは漁師文化だからじゃないか、と言うんだよ。だから「宮台さんの本を読んで、いろんな学校がこんなにキツいんだという話を聞いてもピンと来ない」と。土佐も有名な漁師文化だよ、九州と並んで。それは分かるよ。

 まず、漁師の文化が実利主義だというのと、あと、例えば漁師町があると、必ずその周りには女郎屋があるんだよ。だって遠洋に出掛けていったらさ、そこで女を買わないとやっていけないから、それで漁師は皆女を買うわけだよ、一人の例外もなく、昔から。それで港町があれば、自分たちは買わないけど、他の港から来た奴が買うための女郎屋があるわけだよ。それは必要不可欠なのね。

 そういう文化の中で育ってきていれば、当然のことながら形式的な禁欲主義とか、何のために役立つのか分からないルールなんてものは、全部2の次になっていくよね。全てのルールには、全部機能がある。「なぜそういうルールがあるのか」ということも、ちゃんと、正しいか正しくないかじゃなくって、「こういうふうにしないとこうなります」というふうに、全部因果的に言えるような仕組みになっていると思う。

 あとやっぱり、皆同じ、皆一緒、というふうにすることがいい、というふうにならないはっきりした理由がある。それは、毎日の取り分が、簡単に言えば、Aさんがいっぱい捕ればBさんは捕れないんだよ。だから、お互いに食い合う関係が生まれる。でもその同じ町の漁師の間でお互いに食い合う関係にありながら、尚且つ共同防衛をしないと漁業権を犯される、ということに象徴的だけども、様々な外部者によって侵害されるということがある。

 そういう漁師の間の共同利害と、漁師の間の特殊利害が絶えずせめぎあっている、というのは、農村には絶対にありえない状況だよね。

 もちろん農村と漁村に共通する面もあるよ。漁村というのは漁業権を争っているだろ、その争いは、港と港の間に起こるんだよね。それだと、水利権もそうだろ、水利権も、村と村の間に生じる問題。もちろん、村の中でもまれに水利権の問題が生じる、そういうところは似ているけど、違うのは漁師の場合は漁師の間に絶えずそういう特殊利害の違いがある。漁場を教えれば皆がもうかるけど、自分の取り分は減るよ。「わ、ここはすごい漁場じゃないか!」って見つけたときに、「どうしよう、皆に言った方がいいだろうか…」という選択に絶えず直面するのがやっぱり、漁師文化なんだよ。

 漁師の話を聞いていて、よく分かった。僕たちがどうして、共同体的な文化をもっているのか。それは農村共同体だからだ、というのが、本で散々読んできたから頭では知識としてあるけど、今回の漁師さんの話を聞いて、漁師さんの生活ぶりをたった3日だけども見て、めちゃくちゃ納得いきました。

 僕たちはもう、農業やってきてない以上、そういうメンタリティにする必要性は全くない。現に漁師文化は違うから自分の生活形態( )違うルールにできる。

   (雑音があって聞き取れず)

 でも、皆ほっとするみたいだよね、東京に出るとさ。でも、それからしばらくするとキツくなるんだよ、だんだん。

(おれ:そうですね。何でそんな変わっちゃうんっすかね。いろいろ慣れちゃうとキツいですよね。全部制度化されてるから、見えちゃうじゃないですか、全部。)

 でも、全部見えてるっていうとさ、抽象的には漁師の生活はこういうものです、って見えているわけじゃない。

(おれ:ああ、情報としては。でも、その場に…)

 でしょ?直接性っていうのはそういうことなんだよ。毎日同じことの反復です、漁師も。例えば、毎日捕れるかどうか分からないっていうことは、毎日同じで変わらないよ。でも、直接性という観点からすると、( )感があるんだよ。今やってることが、どういう結果が出るのか分からない、って言ったけど、必ず情報で跳ね返るようにして存在しているから…やっぱり、それだよね。

 それでさ、テレクラのこともちょっと思い出したんだよ。テレクラとか、ナンパもそうなんだけど、ハンティングっていうのは、どうして面白いのかっていうと、やっぱりそこにあるよね。どんな風になるか分からないからだよ。誰に会うか分からない。「何でそんなキモチワルイことやるんだ」っていっても、誰に会えるか分からないからやめられないんだよ、面白くて。

 お前も、一時期テレクラにはまったりしてただろ?それは、分かるもん。テレクラとか、そういうのにはまった奴は分かるんだよ。どんな奴が来るのか分からない、というのがイイんだよ。危険だからいいだけじゃん、はっきり言えばさぁ。

 それ(直接性)がテレクラと売春だっつーのは、やっぱりリソース乏しいよなぁ。おれたちにも漁師の生き方はできる。テレクラと売春だ(笑)。

(おれ:それしかないんっすかねー(笑))

 手っ取り早いのはないよ、それしか。残念ながら今のところはね。似たような種類の、直接的な体感っていうのは。

 乏しいんだよ、直接性のリソースというのは。都会では、僕たちの周辺で。

(おれ:でも、テレクラとか売春とか、そういうのって僕たちの生活全部がそれに負っているわけじゃないですよね。漁師さんたちは本当に生活がかかってて、それで生きていけるわけじゃないですか。その差は大きいですよね。)

 そうだよ。だからテレクラは飽きちゃうけど、漁師は飽きるもクソもないよな。

 漁師に飽きたっていう話は聞かないよね。皆、近海の漁師やめて、いつでもマグロ船に乗ったり、別の仕事に移ったりできるのにな。ということは、やっぱり飽きないんだろうね。そういう種類の緊張感は、あるんだろうね。

 釣りも今すごい今ブームだけど、釣りも同じような不確定性にいつもさらされてるよね 「ハンティング」だよね、キーワードは。ほら、海の漁師さんも漁師で、山で鉄砲撃ってるのも(音は違うけど)猟師じゃないか。日本には「リョウシ」がいるよね、ずっとさ。リョウシっつうのは、楽しいんだよ。

 僕がテレクラにはまったっていうのは、リョウシ歴10年みたいなもんかなー。

 直接性にもいろんなタイプのものがあるけど、一つは、今言ったハンティングに結び付いたような、「どうなるか分からない」というのが絶えずありながら、「どうなった」という帰結が結構すぐ分かる、ということだよね。どうなるか分からない、それで、こうなった。それが毎日起こる、ということがポイントだろうなあ。

 どんな女が来るのか分からない、こんな女が来た。どんなオヤジが来るのか分からない、そんなオヤジが来た…。これで「分からない」が半年や一年続くんじゃしょうがないよな。だからテレクラでなぜ「一週間後に会いましょう」というのが意味がないのかっていうと、こういうことなんだよね。それじゃあダメなんだよ。今ここの話なんだよ、一週間後なんていらないんだよ、関係ないんだよ、という感じになるじゃない。今、ここで結果が知りたい。

 なんかテレクラの話で終わっちまったなぁ。

(おれ:超オッケーすよ(笑)


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