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榎原神社の萬壽姫

 歴史上の巫術師の実態を知るうえで貴重な資料となるのが内田万寿姫の例であろう。南那珂郡南郷町榎原(よわら)にはこの地区にある榎原神社の創建にまつわる内田万寿姫(ますひめ)という女性が現在ではほぼ伝説化して伝えられている。この女性、内田万寿姫子は鵜戸神社参拝のおり、神の啓示を受け、シャマンとして一般庶民から飫肥藩主まで信望を受け、神女として慕われた。ここではまず内田万寿子の生涯を見ることにより、そのシャマニックな要素を捉え、次にその時代背景を考慮に入れることにより、これだけ大きな力をこのシャマンが持ち得た背景を考えてみたい。ちなみに内田万寿姫が書き記した『桜井神通記』が公にされていないため、ここでは森山真嗣氏に戴いた資料、及び聞かせていただいた話をまとめて全体像を探っていきたい。ここではシャーマニックな要素を中心に紹介する。

 内田万寿姫は元和六年(一六二○)の初夏に福島西方(現串間市)に生まれ、後に父内田外記の都合で榎原に移り住むこととなる。一七歳のときに一度は嫁ぐことになるが成立しなかったため、その後終生独身を通したという。寛永十七年(一六四○)九月、万寿姫二一歳のときに神がかることとなる。そのときの様子は次のように伝説化している。

 丁度初秋の或日夫婦は愛娘の満壽子を伴って、鵜戸神宮へお参りしたが、帰途萬壽子が妙なことを口走るので急いで家に連れ帰ったけれ共、満壽子の狂態は静まるどころか、却って強度になって殆んど手の付けようが無い様になった。髪を振り乱し、眼は血走って眉は引きつり見る見る恐ろしい形相に変って、就かぬ事を叫び乍らともすれば飛び出そうとする娘の変り果てた姿に夫婦は暗涙を呑み乍ら一日も早く病気の全快せん事を神仏に祈った。或る曇った夕べの事である。満壽子は父母の監視を受け乍ら、椽先に立って薄気味わるいほど暗雲の低く垂れ下った空をじっと見つめていたがまもなく、一陣の風がさっと吹き過ぎると見るや何処からともなく黒雲がフワリと下りて来て満壽子の身体を包んだかと思うと彼女の身体は雲の上に乗って天に舞い上がってしまった。夫婦は急には言葉も出でず、唯茫然としていると間もなく件の黒雲は娘をのせて何処からか舞い下って来、彼女を庭に下ろすと何処へか消え去った。余りの不思議さに夫妻は満壽子にわけをたずぬると「あれは鵜戸様にお参りしたのでございます」と言って鵜戸の海岸の砂を一握り持って来ていた。

『宮崎縣福島郷土史』

 困惑した父外記は精能という僧に魔祓いの祈祷を頼んだ。精能とは真言宗地福寺(現在の榎原神社境内裏にあった)の第一代住職である。そのときの精能と万寿姫との対話が『榎原村郷土誌』にあげられている。
 万寿姫には精能、金真坊、実祐、伊東祐久の四人が関わった。
 金真坊は「鵜戸山の御主」とされる人物である。慶安年中(一六四八~一六五二)のある年の九月、鵜戸山の岩屋で万寿姫が篭もったとき、神敵が海上から押し寄せてきた。そのとき金真坊が万寿姫の後に扇を持って立ち神女をお守りしたという。
 また第三十八世鵜戸山別当であった実祐によって万寿姫の評判は第三代飫肥藩主伊東祐久に伝えられる。明暦二年(一六五六)万寿姫三七歳のとき祐久に対して小社を建立し、鵜戸山の御分霊を榎原権現として祭るよう進言があった。鵜戸山信仰と真言宗を宗教的背景に持った内田万寿姫は榎原を中心とした人々の信望を集め、さらに祐久を中心とした権力の支持を受け、一層の巫女的権威を掌握していった。結果的に政権争奪に勝利した祐久はその権力の象徴として、万寿姫の死後も桜井神社を建立し万寿姫の神霊を祭った。そういった伊東氏の象徴であったからこそ鵜戸神宮と並んで代々藩主の崇敬が持続し、榎原神社本殿(一七○七)・社務所(一七九二)・現摂社桜井神社社殿(一七九七)・鐘楼(一八四二)・数々の末社などが建立された。
 万寿姫に対する飫肥領内上下の信仰はますます盛んとなったが、邪説を唱えて衆愚を惑わすと国老矢野儀一は、有志と謀って之を厳禁せんとし、鵜戸山別当以下飫肥に招致し、大いに之を責め若し改悛することないならば、斬罪に処せんと宣言した。このため、この信仰も一時低迷したが、寿法院が五十一才で病死すると、虚説迷信再び行なわれた。矢野儀一の子儀朝が国政をとるにあたって、彼は深くその信仰を憎み、亡き父の遺志を継いで、この信仰に大抑圧を図った。しかしその結果としては、民衆の反感をかい、国外追放の奇禍(キリスト教信者として密告されたことがきっかけ)をこうむるに至った(30)。
 榎原神社には万寿姫が使った巫具が神女の宝物として展示してある。これらは当時の巫女の活動を知るうえで貴重な資料と思われるのでここに紹介する。桧扇は約三○センチのやや大きめのもので、表面の図柄は中央に松、両端に鶴、松の根元に亀一匹、松の根元から梅の木、全体に雲が描かれている。裏面には蝶が五匹と雲が描かれている。扇上部に紐垂れが装飾してある。扇の開き数は二十七枚である。破損がひどいため明治二十九年に修復した。神鏡は直径約一二センチの銅製の鏡である。模様は上部に桐の紋二つ、中心に亀一匹、左に鶴二羽、全体に松の模様が施されている。彫刻は文化財的価値があるといわれている。数珠は黒色で長いものが一本、白色で短いものが二本残されている。数珠を入れる箱に「奉納川崎大膳祐理郡司万兵衛久辰」と書かれている。法女となった万寿姫が地福寺で使用したと伝えられている。神女の天冠は神女が榎原大権現を祭られたときの冠で二種類のものが残されている。経文一巻。僧空海筆といわれるもので日下部氏郡司萬兵衛寄進とされている。このほか神女の宝物として白装束・肖像画・刀(僧紀ノ新太夫波平安行作)なども残されている。
 「ヤチガイの御守」も伝えられている。寛永十七年十一月には「ヤチガイの御守」(縦約二○センチ、横約一〇センチ)を染筆する。これは千枚の和紙を重ねた上から「五大力菩薩」と一筆書くと一枚を残しすべてに墨書きされたという。直筆と印版のもの数種類が残されている。武運長久・護身の御守りとして武士たちの間に配布されたものである。この御守は現在も伝えられ、明治期から昭和期にかけての度々の戦争に効力を発揮したといわれている。
 また榎原神社は縁結びの神としても有名である。近郷近在の青年男女や両親たちが婚姻の相談を万寿姫にもちかけ、万寿姫の進言に従えば良縁に恵まれ、しかも安産、子どもは健やかに育ったといわれる。祐久公も世継ができずに万寿姫に進言を求め、すすめられた特別の漢方薬によって無事懐妊したとも伝えられている。万寿姫の死後もその信仰は衰えることなく、鵜戸さん参りと並ぶ榎原参りで知られるように縁結びの神として崇敬されている。なお境内には「夫婦杉」と呼ばれる樹齢御百年の二本の杉がある。

主な年譜
元和6(1620)初夏 万寿子福島西潟(現在の串間市大束)で誕生
寛永13(1636) 万寿子十七才の時井上体次郎に嫁したが婚姻成立せず
寛永17(1640) 万寿子二十一才の時、鵜戸山に参篭し、翌九日帰途俄に神気かかり、神女となる(=桜井権現御出現)。神女矢違いの御守「五大力菩薩」を染筆された
寛永18(1641) 榎原権現と山王両社兼封について森山伊豆の嫡子兵部大夫に神女の御託宣あり(榎原権現示現の始め)
明暦2(1656) 第三代飫肥藩主伊東祐久公、家老伊東勘解由と別当真譽を伴い榎原へ参詣の折り、神女、伊東祐久公へ「示現の霊跡を廃せず榎原に小社を建立し榎原権現と号すべし」と御託宣あり。神女伊東祐久公へ榎原権現建立の進言をされた時に当って神化留坐(神となりとどまり座る)の日、髪を切り落とし神女を改め法女となる(仏門に入る)
萬治元(1658) 榎原権現小社創建
寛文10(1670) 法女満五十一才で神退遷化(死亡)。法名寿法院殿。(現在の御縁日祭)
延宝2(1674) 桜井権現創建、桜井の宮「如意輪観音」と追号

※『宮崎県史 民俗』


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