筒香の大飛球が僕らを1つにした。

大学生の頃、家賃29千円の安くてボロいアパートで一人暮らしをしていた。安いせいか、部屋の壁は薄く基本的に横の人の生活音は聞こえていた。

律儀に引越しの挨拶をするタイプでもないのでアパートの住民とのコミュニケーションはほとんどなかった。

私の左隣の部屋には大学のゼミの先輩がいたがほとんど話をしたこともなく、会っても会釈程度。これがアパート内唯一のコミュニケーションだったと思う。他の住人とは出入り時に顔を合わせることはあっても会釈すらしない。

だが、アパートには緑髪の大学生や指に入れ墨の入った建設作業員、特に可愛くもない女子大学生等くせものがちらほらいた。中でも1番のくせものが私の右隣の住人だった。

入居してから引っ越すまで結局1度も顔を合わせなかったのだが、いつ家に帰っても生活音が聞こえてきた。恐らくニートだったのだと思う。生活音が聞こえてきて鬱陶しいと思うこともあったが、これもお互い様で仕方のないことと思っていた。

だがアパートに住んでから1ヶ月経ったある日、横からドンッ、ドンッと大きな音が聞こえてくる。生活音ではなく音から意思を感じる。これが世にいう壁ドンなのだと分かるのにそう時間はかからなかった。

壁ドンをされるのは意外と鬱陶しいもので自分に対して敵意のある人間が隣に住んでいると分かった瞬間、嫌気が差してくるものだ。

何故壁ドンをしてくるのか意味がわからなかった。大した生活音も出してはいないし、そもそも右隣の住人が夜中に洗濯機を回しているのだって黙認しているのだ。感謝されこそすれ、壁ドンをされる筋合いはない。

何もやり返さないことをいいことに増長した右隣はその後も毎日のように壁ドンをしてくるようになった。ニートごときにビビっていては男が廃るとおもった私は何度か壁ドンをやり返したものの、より大きな音で壁ドンをされるようになっただけで止むことはなかった。

その後、音を録音し不動産会社にメールで抗議したことが幸いし、お灸を据えられたのか右隣からの壁ドンはされなくなった。(夜中の洗濯機はそのままだったが。)



その後は壁ドンをされることはなくなったものの、右隣に対して悶々と鬱屈した気持ちを持つようになる。
それまで気になっていなかった生活音にストレスを抱えるようになってしまった。いつでも聞こえてくる生活音がいちいち気になってしまい大学のレポート作成も、好きな芸人のラジオも集中出来ない。右隣を意識した日々を送ることになり、生活音からいま何をしているのかも把握できるようにもなった。無意識にストーキングをしてしまっていた。


そんな生活に嫌気が差していたある日、右隣と私が1つになる出来事が起こる。

数年前のWBCの日本vsアメリカ戦だったと思う。互いの先発の好ピッチングでなかなか得点が入らない投手戦。

テレビにかじりついて試合を見ており、ヒットや好守の度に思わず「おぉー!すげー」などと声が漏れていた。試合に集中していたが、途中で右隣からも同様に「おおー!すげー!」と聞こえてくるのが分かった。

嫌いな右隣も私と同じように野球を見て楽しんでるんだなと分かると意外と悪くないやつなのかとも思えてきた。

手に汗握る投手戦、1-0で迎えた9回裏ランナー2塁、1発出れば逆転の場面で日本の4番・筒香嘉智選手に打席が回ってきた。アメリカの抑え投手のストレートを捉え、打球はライト方向へ高々と上がった。

緊迫した場面で上がった大飛球はホームランと相場が決まっている。私と右隣はそのときはじめて1つになり「おおー!!!」と絶叫した。今まで嫌いだったけど、お前のこと見直したよ。右隣にテレパシーで伝える。右隣も同じ様に思っていたことだろう。

だが、残念なことに筒香選手の大飛球はライトフライに終わり、あっさり試合終了。試合結果にうなだれていた私はその頃には右隣のことなぞどうでも良くなっていた。

その後は私が引っ越すまで特にハプニングも起こることもなかった。今振り返るともっといいアパートに住めば良かったと思う。おわり。


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