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「トトロはどうして終わるのか」という4歳児の質問に対し、本気で仮説を提示してみる

トトロはどうして終わるの?」

4歳の長男からの質問である。

しばらく前からジブリのDVDがお気に入りで、よく視聴している。

映画が終わる。

映画に限らず、マンガでも、小説でも、論文でも、何らかの「モノ=媒体」に置き換えられた情報は、そのモノ=媒体の時間的空間的な「端っこ」で、必ず終わる

情報それ自体の言い分としては、「モノの枠さえもらえれば、まだまだ続きますよ」ということなのかも知れない。が、モノ=媒体を離れて純粋に情報として存在する「モノ」はない以上、やはりモノの終わりで映画は終わる

物語の終わりは、モノの終わり。

尺には限界がある。

というようなことを長男に伝えたが、釈然としない様子である。

「・・・つづきが見たい」

という。

彼のプロブレマティーク(問題の立て方)においては、「終わる」を、モノ=媒体の時空的限界の問題に置き換えても、そこで問いが止まることはないようである。

問いに答えが出るのというのは、なぜ、なに、どうして、を次から次へと別の事柄に置き換えて行ったあげく、それ以上置き換えなくても良いかなと思えた時である

例えば、わからない言葉があると国語辞典を引いてみたという経験はおありだろうか。辞書には「謎1は謎2のことである」とある。謎2がわからない。わかろうとおもって調べたのに、さらによくわからない言葉に置き換えられてしまう。そうして今度は謎2を調べると、さらに「謎2は謎3のことである」…と、謎の言葉が連鎖していくあの感じ。

この連鎖が止まるのは、謎から謎への置き換えが、どこかで「知っている」と思える言葉にぶつかる時である。(しかし、その知っていると思っているゴールの言葉の、一体なにを知っているのだろう…。という危険な問いの転送はおいておこう

「まだ続きがあるよ(つづきがあるはず)」

と、続きの存在を確信し、見えなくて困っている。

その様子と言い分を素直に受け止めてみると、なんとなくわかってきた。

4歳の彼にとって、テレビは「窓」なのだ。

見る者が居る「こちらの世界」と、映画の主人公たちが生きる「あちらの世界」がある。そしてテレビは、その二つの世界をつなぎ、こちらからあちらを見えるようにする「窓」なのだ。映画が終わるというのは、その両方の世界のあいだに開かれた「窓」が、突然閉じられてしまうことである。

ここで、「あちらの世界は、描かれた、空想で、実在しないんだよ」などと言うことは無意味である。むしろ描かれ、想像されたという資格において、それは紛れもなく「実在する」。これはつまり、マルクス・ガブリエルがいつも言っていることである。

世界は複数である。しかし、世界Iと世界IIのあいだを行ったり来たりすることはできない。世界Iの中にいながら、同時に世界IIに入り込むことはできないし、世界IIを正確に厳然たる事実として世界Iの内部に持ってくることもできない。世界Iの内部において「世界IIとして記述された世界」は、それは紛れもなく世界Iの一部なのである。

しかし、ふたつの世界はまったく無縁ではない。世界IIはその「影」を、世界Iの上に落とす。塞がれた窓は、電源を切れば真っ黒になるテレビの液晶パネルは、そのあちらの世界の「影」を、こちらの世界の人間の感覚器官に適合した形に調整する、手の混んだ装置である。

そして画面が消える時、「あちらの世界」が「こちらの世界」へと、影を落とすのを中断する

よく描かれた物語においては、その分離あるいは離脱は、突然の断絶という形は取らない

丁重に、丁寧に、慎重に、分離のための儀礼を展開してくれる。

というよりも、窓が空いている時間、あちらの世界からこちらの世界への射影が行われている時間が、すべてこの来たるべき分離のための儀礼に終始している作品こそが、よく描かれた物語ということになる

あちらからこちらへ射影された「影」が演じる物語は、最初から最後まで、「分けつつ、適度なつながりを保つ」ための調整に、細心の丁寧さをもってのぞむ。

なんでもよい、ふたつの互いに区別される項を、区切り、そのあいだを接続する象徴的な「道」をひらき、区別される項同士が別々の異なったものでありながら、同時に「ひとつ」につながった状態を、作り出そうとする

このつながりが離れ過ぎたり、切れかけたりするとき、そこにより強力な接着剤、バイパス道路、高速列車が登場し、遠く分離しかけた二つの項を、またひとつに結びつける

『となりのトトロ』は、徹頭徹尾、この分離と接合の運動、区別を区切りつつその間に調和的な関係を保つこと、そのプロセスを描くことに終始しているように見える。

※さて、ここからは「ネタバレ」が含まれるため、未だ『となりのトトロ』を視ていないという方は、そっと「スキ」ボタンを押してから、ページを閉じてほしい。

過積載のオート三輪が橋を渡る

まずオープニングである。

荷物を満載し、不安定にゆらゆらと揺れるオート三輪が、未舗装のガタガタ道を走り抜けていく。

このオート三輪でこぼこの道路は、端的に、どこかからどこかへ、場所Iから場所IIへの移動であり、場所Iと場所IIを区別しつつ、結びつける装置である。

しかも道は川を渡る「」さえも含んでいる。

所見の段階では「おまわりさん」だか「ゆうびんやさん」だかわからない中間的で両義的な謎の人物もまた、自電車でその橋を渡る。

実に曖昧で、危うい。

特に危ういのは「三輪」の上に積み上げられた荷物たちの不安定さ。

あわや横転するのではないかと思わせる、そのゆらぎ。

重力とバベルの塔。

道が、場所から場所への水平の区別を区切りながら結ぶとすれば、この不安定な過積載オート三輪のあやうさは、天と地を区切りながら結ぼうとする。

と、オープニングから、この映画はあやうい区別と、両義的な媒介者のオンパレードなのである。道も橋も過積載のオート三輪も、いつ崩れてもおかしくない。

これはレヴィ=ストロースの言う「神話」の構造の動態そのものである。

そうして過積載のオート三輪は、それまで来た道から分岐する脇道にそれて、主人公家族たちの引越し先、映画に描かれることのない彼らの旧住所が場所Iであるとすると、それに対する場所IIへと、一家は入場する。

稲荷の社の角を曲がる

この道の分岐の場所もまた象徴的である。この場所は、後に主人公姉妹がはじめて「ネコバス」と遭遇する「稲荷前」のバス停のところである。

そこには稲荷の社がある。

稲荷といえば、お米の神、穀霊であり、この水田が広がる場所IIを守り、豊かな実りをもたらす神様である。しかし、それと同時に、その妙に湿った薄暗さはなんだろうか。稲荷の社というのは、しばしば、その深い森だったその土地を開拓し水田を開き、人間にとっての生活の場へと作り変えた遠い先祖たちが葬られた古墳の横穴に祀られることがある。それは明るい太陽に照らされた美しい水田の広がるこの現在の世界IIを、過去へと、地下へと、結びつける点、穴、抜け道、インターフェースである。

古墳の横穴からぴょんと顔を出す「ご眷属」の狐。

狐は現在と過去、地上と地下を、自在に行ったり来たりする、媒介者である。狐の神、「三狐神」と書いて「サグジ」ともよまれるという神は、それこそ古墳が作られるよりも前、水田が開かれるよりも前、その土地がまだ「山」だったころの境界の神の記憶さえも残している。

その稲荷の社の前を抜けて、オート三輪は、水田の広がる集落へと入っていく。

家族の父親は、水田で仕事中のご近所さんに「引っ越してきました」と挨拶をする。丁寧かつ、大きくて、はっきりとした言葉で。

そういう言葉でスムーズに結びつきが進行する大人の世界。

その傍らで、主役の女の子の姉の方が、地元の男の子と不器用な出会いをする。

そうして、オート三輪は引越し先の家に到着するわけであるが、この家の敷地と道路のあいだには小さな川が流れており、そこに小さな橋がかけられている。なにかとなにかを、区別しつつ、結びつける。川と、橋。

その橋を超えると、切り通しの「坂」である。

これでもか、と、境界を跨ぐ媒介者が続出する映画である。


そうして坂を登ると視界がひらけ、あちこち朽ちはじめかけているボロ屋が登場する。これが主人公たちの新居である。朽ちかけた住居というのはおもしろいもので、「人工物」と「自然」との、中間的存在である

もちろん、あらゆる人工物は「自然」を切り取って、組み替えたもので、元来自然の一部であり、それは切り取り、組み替えを決行した人間の意図を超えて、無数の微生物や小動物によって、分解され、削られ、そうして「自然」へと帰っていく。

その点、あらゆる人工物は自然物と通底しているのであるが、しかし、両者は厳然と区別される。

この区別が、実は人間の側が勝手に読み込んだ意識の枠組みであるということを、朽ちかけた危うい柱の軋む音、風に踊るトタン屋根の叩く音が、意識それ自身に思い出させてくれる。

そうしてこの朽ちかけた家は、見上げるほど大きな「クスノキ」の懐に抱かれている。

大地に深い根を張り、天へと伸びるクスノキは、地下、地上、天井を一挙に結びつける媒介項、いや、媒介軸である。

クスノキの根のウロに住むトトロは、この媒介軸そのものである。媒介軸それ自体のダイナミズムの具現化にほかならない。

この媒介軸を通り道に、こちらがあちらに、あちらがこちらに、行ったり来たり、日常的には決して言葉が通じるはずのない者同士が、やすやすと非言語的言語で会話をする

ちなみに、この「サツキとメイのお父さん」は考古学者であり、彼自身、現在と過去をつなぐ媒介者である。

その彼の机に積み上げられた研究資料の中に「纒向遺跡」と書かれた一冊がある。

纒向遺跡と言えば、古代の「イチ(市)」であり、後の「ヤマト」の首長連合の形成につながる、交易ネットワークのひとつの結節点であったと考えられている。イチは、異なる部族、異なる一族に属する者が、その境界を超えて出会い、交換を行う、中間的な場である。

纏向といえば、一家が引っ越してきた水田稲作の農村は、「弥生」の水田稲作民が作り上げた景観が、「縄文」以来の森にすっぽりと包まれて存在しているという、”こもりく”の泊瀬の入り口に位置する纏向の景観のようにも見える。

いずれにせよ、こんなところにも媒介者である。

上下左右を自在に行ったり来たりする、媒介者としてのネコバス

ということで、お話はこのくらいにして、続きはぜひ映画を観て、対立項と媒介項を探してもらいたいところである。

姉と妹、老人と子供、年長者と年少者、父と母、女性と男性、人間と自然、健康と病。そうした「異なるが、ひとつに結びついているもの」同士の引力と斥力のバランス、かすかな緊張感を内在させた「付かず離れず」の関係が、この物語の構造を織りなしている。

この関係が静的に安定している限りは、この関係を切り分けつつ結びつける媒介者は影を潜めている

ところが、異なるが、ひとつに結びつている”べき”もの、ひとつにむすびついている”はず”の者同士のあいだで、斥力が引力を上回り、過度な分離が進行してしまった時、この分類を埋めるために、距離を飛び越えてふたつをひとつに結ぶ媒介者が登場する

迷子になったまま「死」の気配の中で夜を迎えようとしている妹を、必死に探そうとする姉。その彼女を運ぶために現れた「ネコバス」。

ネコバスはさらに、家を遠く離れひとり病院に居る病気の母のもとに、「お家にいるはず」の子供たちを運び、そうして再び家に連れて帰るクライマックスの場面でも、その媒介者ぶりを発揮する。病室の中を窓の外から眺める姉妹とネコバスは、ご丁寧にも「木の上」に居る。木の上というのは、地上と空との、ちょうど「中間」である。

4歳の長男は納得したか?

ネコバスが高速で走り回り、鉄塔を登ったり、送電線を綱渡りしたりすることで、この映画は一挙に適切な対立関係の調和を快復する。

だから、そこで映画は終わっていいのである。

束の間、やぶれかけた世界は、またひとつに結ばれたのである。

ここで、物語は一旦「おしまい」である。

もちろん、区別の過度な亢進、異なりながらも隣同士であるべきモノ同士の過度な分離は、いつでも、どこでも、また生じうる。しかし、いまはつかの間、地球における昼と夜の交代と同じくらいのレベルで、安定した対立関係を取り戻したようである。

さて、この話であるが、「区別」「対立」「媒介者」「過度な分離」「レヴィ=ストロース」と言っても、さすがに4歳には難しいようである。

そこで彼のプロブレマティークにおける、問いの連鎖を束の間投錨させることができそうな表現を探す。

なぜ終わるのか? 
メイもみつかったし、家に帰って寝るから、終るんだよ

収まるべきところに収まる。

なるほど、と思ったようで、釈然としない感じではあるが、とりあえず今日のところは許しておこうという様子である。

「また朝になるか?」

と聞かれたので、「もちろん」と答える。

そして次の朝になると、思いも寄らない分離の危機が訪れるのである。

それを一体、どう仲介し、つかの間の調和という外観を設えるのか。その問いは、いつか彼においてまた再開されるのかもしれない。


おわり

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