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白と黒で、写真と#2−1

月刊ホサカさんでお世話になっている、いわなびとんの尾藤さん主催の『白と黒で--写真と・・・』清水穣著の読書会をやっています。

近々、「暗室の路上 Daido neither nor」の章 p91 をやることになっていて、これは予習ノートとしてまとめました。

まとめるにあたり『白と黒で わからないところメモ 森山大道編』noteと、こういう時に本当に便利な『哲学用語図鑑』プレジデント社刊を参考にしました。

(保坂は#1を文章にまとめてないので、ノートにはないのです。

#2からのスタートです。あしからず。)


読む前に、押さえておきたいことがあります。


1)清水先生のパースペクティブとして。第一章の結論をさらう。

全てに“差異と落差”を中心に置いた、写真批評になっている。

上で述べたように、我々の日常感覚がすでに横断的なあり方している以上、写真は意識化の無意識を写し出したりしたりしないし、知覚の外部をなす即物的な世界の存在を露出させたりもしない。様々なスタイル(引き算・割り算の構成、モンタージュ)によって写真が表出するものはあるレベルの知覚と別レベルの知覚が遭遇したときのサイと落差だけなのだ。この落差がメディアのもう一つの力、すなわち特殊な均質化によってますます困難になっているのは本当である。しかし、写真にもし存在論があるとすれば、その「存在」とはこの差異と落差のことである。というのも、その落差が我々にあたえる衝撃だけが我々の生を形成し、そのつど一つの個体の痕跡として焼き付けていくからである。
p20-p21

cf.差異の原理
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

生活必需品の普及が終わったら、商品が売れなくなるわけではありません。その後に訪れる消費社会では商品の役割は本来の使用目的から、自分の個性や他者の違いをアピールするための記号に変化します。消費社会は、ほかとはわずかに違う商品を次々と作り出し、消費欲を無限に作り続けます。そして人はこの構造に取り込まれていくことになるのです。ボードリヤールはこの原理を差異の原理と呼びました。
哲学用語図鑑

2)実存主義、構造主義、ポスト構造主義をさらう。

“暗室の路上”論旨とは、森山大道とはポスト構造主義写真家である。のではないか?という保坂の個人の意見があります。

  • 実存主義 :具体的に生きている私のあり方を探求する思想

  • 構造主義 :人間の言動は、その人間が属する社会や文化によって規定されていると考える思想

  • ポスト構造主義:西洋の哲学は、古代ギリシャから構造主義に至るまで「○○はこうなっている」というように、一つの様式に囲い込んでとらえる特徴がありました。このような固定的なものの見方を反省し、新たな哲学を模索した後期のフーコー、デリダ、ドゥールズなどの思想をポスト構造主義(「構造主義より後」と言う意味)といいます。

  • ポストモダン :もともとポストモダンは、建築分野から出てきた用語。合理性、機能性を志向するモダニズム(近代主義)に対して、ポストモダニズム建築は装飾性や、多様性の回復を主張した。

[本文]


P91 :森山大道について書かれた数多の文章は二つのパターンを撮るように思われる。

  • 実存主義的なリアリスト

  • 光を感じるフェティシスト

P91 :この通説は、少なからぬ著作に読まれる本人の自己理解ともよく合致して、一定の説得力を持っている。

>>実存主義的


P91 :森山大道の写真が、写真そのものの物質的条件を自己言及的に表現していることは、

>>構造主義的


P92 :ざらついた画面がざらついた現実の転写である。と言うような通説は、実は比喩に過ぎないものである。

>>森山大道のリアリズムは“ざらつき”ではないと批判。


P92 :もし彼の作品のざらざらとした触覚感が、世界を擦過するハンターの「リアリズム」とは関係ないとしたら、

>>森山大道のリアリズムを“擦過”と定義。


P92 :プリントの極に、光を定着する写真の物質条件そのものを表現するという自己言及性が見られるように、路上の極には写真史に集蔵された数々のイメージへのあからさまな自己言及性がある。

>>ポストモダン的orポスト構造主義的

1.写真を見ること


P98 :問題は、これらのモティーフが、森山大道の個人的嗜好によってランダムに選び出されているというよりは、はっきりと、ほとんどあからさまに特定の写真史や美術史の記憶を指し示すことである。

>>非実存主義


P100:我々はなんとリアリズムから遠くにいることか。

>>我々の“現実の転写・ざらつき”リアリズムは、森山大道の“擦過”リアリズムから遠い。


p101:いわば写真史と美術史のインターテクスチュアリティを背景に、手札を見せながら、引用とオマージュによる「作品を」編み上げるポストモダニティを森山大道に見ることは不可能ではないが、本質的なのは、

>>テクスト論(ポスト構造主義)

cf.

インターテクスチュアリティ=間テクスト性

ポストモダニティ=ポストモダン状況


p101:と言われるときの、写真の「多重性」、すなわち写真が無数のイメージと開かれ、無数のイメージ=写真を「記憶」していることであり、後述するようにその無数の記憶によって、そのつど森山大道の「リアリティ」が再生されつづけることである。

>>シミュラークル?=オリジナルとコピーの区別が失われていくこと(ポストモダン=ポスト現象主義)

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