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《ひとつの世界》を考える:自然と文化と共同体

・まくら
今回は長い、文章が長くなってしまった。
中野の丸井(沖縄物産フェア?)で買った、大東島にあるグレイスラム『COR COR』赤ラベルを一本飲みきる。
なぜ飲み切れたかといえば、飲み残しのコーヒーで割る、を最近になって発見したからだ。
西新宿のバーテンダーに次に飲むラムの銘柄を相談すると、泡盛のコーヒー割りを教えてもらう。
なんでもビギンの人が好きなので「ビギン割」といわれているそうな。そしてまぁ我が家には泡盛もあるので、早速飲む。うまし。
というわけで、この泡盛もすぐになくなるだろう。(^^)

・一つの共同体
石川千秋『読者はどこにいるのか』は抜群に面白い。
西荻窪の音羽館で本を売り、そのお金で買った。
もう売ったり買ったりの五冊目である。
この本は僕が掘っていたポスト構造主義、バルト《作者の死》以降のテクスト論を俯瞰して、ジェンダーやコンプライアンスのイマココまでを知る。
夏目漱石や国語教育を研究している石川先生が、この本で提唱するもっとも大きなポイントは、アンダーソン《想像の共同体》=国民国家を発展させた、《内面の共同体》=大衆ということだった。

・一つの自然 or 一つの文化
先日、月刊ホサカさんの新年会をしたときに、それぞれみんなの写真制作の話題として《想像の共同体》《環世界》《多自然主義》が話題に上り、これはちゃんと調べなければと思った。
それから、Idea for Good 『多自然主義とは・意味』から、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『アメリカ大陸先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義』、A. Nunes Chaib『国際環境法における多自然主義:人間と非人間との関係の法的文脈の再定義』を読んだ。
《多自然主義》とは、西欧人の《多文化主義》のカウンターとして、ヴィヴェイロス・デ・カストロがアメリカ大陸先住民から見出した、もう一つの世界との関わりだ。
一つの事実に多数の解釈が《多文化主義》とする。
または、一つの自然に多数の視点が《環世界》であるとするならば。
《多自然主義》とは、多数の事実に一つの解釈、多数の自然に一つの視点である。
多自然主義社会/文化では、人間や非人間的存在、ひっくるめて人間以上が元来「ヒト」であった=アニミズム。
または同じ「ヒト」としての知性や理解、価値観や社会構造を持つと考える、受け取る、そうやって生きている。という。
これ非常に難しいように思えるが、われわれ近代都市生活者も日常的にやっていることではないか?と気付いたことがあった。

たまたま若い友人くんの恋愛相談を聴いた。
内容は、若い友人くんは絶対に自分は悪くないと思っているのに、突然に彼女にキレられて傷がついた。
しかしまた仲良くしたので手紙を書きたいが、うまく書けない。
どうしても手紙を書くと、好きなのか、嫌いなのか、だんだんぼやけてくるというものだった。
これは、一つの事実=彼女がキレた=自然を、多文化=若い友人くんが悪い/悪くない、を調停=相対化した手紙=《多文化主義》しようと考えたからだと保坂は考えた。
そこで保坂は、若い友人くんと彼女は違う身体なので《多自然主義》的に起こった事実を分け、若い友人くんの事実も彼女の事実も尊重するという戦略を提案した。

・多様化社会から《ひとつの世界》を考える
A. Nunes Chaib『Multinaturalism in International Environmental Law: Redefining the Legal Context for Human and Non-Human Relations(国際環境法における多自然主義:人間と非人間との関係の法的文脈の再定義)』(Asian Journal of International Law、2022年)
は英語の論文だが、DeepL翻訳して読んだのだが、抜群に面白かった。

技術の進歩であれ、規制の枠組みであれ、すべての行動は基本的にひとつの生命形態に依存している:西洋人である。
それは、人間を自然から切り離し、客観化するという、自然との関係のひとつのあり方を示している。
西洋的な生活には、自己反省的な臨界点の可能性はあるが、それでもなお、資本主義の理想に組み込まれ、あらゆるものが市場経済の原理に基づいている社会組織の様式に依存している。
資本主義の理想に組み込まれ、地球を含むあらゆるものが金銭的・経済的価値を持つ市場経済の原理に基づいている。
国際環境法は本質的に、地球を効果的に保護するメカニズムを構築するための経済主導のプロセスに根ざしており、生態系への害を「抑制」または「緩和」する手段としては効果がない。

本稿では、文化人類学の最近の発展というレンズを通して、この問題に取り組むことを提案する。
この学問分野からの洞察に基づき、本稿では、他の形態の生命が地球とどのように関わっているのか、そして人間と自然の分離がどのように相対化されるのか、あるいはされるべきなのかを考察し、これらが、自然とともに生きることから自然の中で生きることへと、我々の「規制」の手段を再調整する方法を提供する可能性があると主張する。
特に本稿では、アメリカインディアンのパースペクティヴィズムと呼ばれる最近の人類学理論を用いて、このような問いに取り組む。
この理論は端的に説明すれば、「人間性を社会的関係が成立する他の種類の存在にまで拡張することを基礎とする存在論であり、人間と動物がその文化的属性において根本的に異なるという西洋的自然主義の対極にあるもの」である。
パースペクティヴィズムによれば、さまざまな「人間」の主な違いは、その「身体的な違い」によって示される。
アメリカインディアンのパースペクティヴィズムが提唱する理論的枠組みで最も重要なのは、多文化主義ではなく、多自然主義を提唱している点である。
本稿では、このような多自然主義の概念が、国際環境法における人間と非人間との間の規範的関係を再考する上で、より有益な設定を提供する可能性があると主張する。
多文化主義が自然の単一性と文化の多様性を前提としているのに対し、多自然主義は「精神の単一性と身体の多様性」を認めている。
多文化主義では、主体が特殊を構成し、自然が普遍を代表する。
一方、多自然主義では、主体が普遍を構成し、自然が特殊という形をとる。
この文脈では、世界は多様な視点に支配されるようになり、そこではあらゆる存在が「意図性の潜在的な中心」であり他のすべての存在を、それぞれの特徴と潜在能力に従って理解する」ことができる。

人間が他の生物種の生活への干渉を最小限に抑えながら、健全で健康的な自然環境を維持することに関係する、国家間法のさまざまな分野が交差していることを確認することは、ますます可能になってきている。
しかし、国際環境法は、先住民族の生活形態を単なる対象としてではなく、規範的関係を確立するためのモデルとして説明する勇気がまだない。
本書は、他のコスモロジーやスペクティヴに目を向けることが、現代の国際環境法の発展にどのような決定的な影響を与えうるかについて光を当てたいと考えている。
その意味で、本稿の根底にある主張のひとつは、今日の気候変動や生態系の危機によりよく対応するために、国際環境法は認識論的な転換を遂げるべきだというものである。

A. Nunes Chaib『国際環境法における多自然主義:人間と非人間との関係の法的文脈の再定義』

まさに若い友人くんへの恋愛相談と同じように思える。
西洋人という、ひとつの生命形態に依存する方法はうまくいかない。
多数の生命形態≒自然≒身体≒事実を受け入れよう、というのが《多自然主義》なのだ。
中平卓馬の《植物写真》は《多文化主義》だったのだ。
明示的な/一意的な/記録/証拠/証明をめざし、多数の解釈を排除して一つの写真を目指すことは、ひとつの生命形態に依存する方法だったのだと、いま保坂は思える。

・《ひとつの世界》の振動
多様化社会はカオスだとよく言われるが、保坂は《ひとつの世界》が振動していると受け取りたい。
その振動軸は三つを考えてる。
一つの自然:事実、財産、生命の危機
一つの文化:解釈、規範、価値観の危機
一つ共同体:合意、名誉、コミュニティの危機

かなー?である。
これが書きたくて長くなった。
どっとはらい

2024/01/19 13:46

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