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明示的な写真、Taking Seriously、植物図鑑

日本はバルト『明るい部屋』以降、海外からの写真論が受容に何かひっかかりがあるのは、日本アカデミックのポスト構造主義理解に大いなる特殊事情があるんじゃないか?
と、諸先輩方に質問を投げかけた。
日本語エクリチュールのラスボスたるイシューとは「日本国憲法」のはずである。これがどうなってるのか??
保坂的には、ここを曖昧にしているから、写真論も曖昧なのじゃないかと想像したのだった。
すると《柄谷行人》という大きな壁が立ち上がってきたのだ。
正直言う、僕は写真のことだけが知りたいのに、すっげー面倒な世界が目の前に広がり少々、面食らった。

覚悟を決めて、新春一冊目、元旦の夜に柄谷行人『憲法の無意識』を読み始めた。
ところがフタを開けてみたら、すっげー面白かった。

日本の戦後憲法九条には幾つもの謎があります。第一に、世界史的に異例のこのような条項が戦後日本の憲法にあるのはなぜか、ということです。第二に、それがあるにもかかわらず、実行されていないのはなぜか、ということです。たとえば、自衛隊があり米軍基地も多数存在しています。第三に、もし実行しないのであれば、普通は法を変えるはずですが、九条がまだ残されているのはなぜか、ということです。

柄谷行人『憲法の無意識』p2

この「九条がまだ残されているのはなぜか」ってのがすごい。
ちゃんと憲法九条の存在論をやっていたんだ、と驚いた次第。

ディコンストラクティブな読解は、テクストの明示的な意味を文字通り受けいれるかぎりにおいて可能なのであって、恣意的な解釈を意味するのではない。(隠喩としての建築)

https://x.com/karatani_kojin/status/1641896966778138624?s=20

とも柄谷行人は言っていて、「テクストの明示的な意味を文字通り受けいれる」ことが大事であって、その上で「ディコンストラクティブな読解」=脱構築しなさいよ、というのが非常に熱かった。
このポイントは、インゴルドの《Taking Seriously》にもつながる言葉で、

他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことに、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていてかまわないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。

ティム・インゴルド『人類学とは何か』p20-p21

日本国憲法にもどれば、「九条がまだ残されているのはなぜか」と真剣に受け取っていることに、柄谷行人の面白さを感じたのだった。

ここで写真に振り返り、でもなぁ・・・ってちょっとなった。
「テクストの明示的な意味を文字通り受けいれる」のは大賛成だが、《明示的な写真》って、超つまらないのだ。
それはただの証拠写真、証明写真なのであるし、スーパーのチラシを思い浮かべて欲しい。
あれこそが《明示的な写真》なのだ。
しかも真の意味で、写真が明示的な意味を持てるか、といっても大きな疑問があるし・・あー・・・うん?

記録?光の化石?《植物図鑑》!!
ああああ《中平卓馬》だだだだだ。

ここで過去の勉強が役に立った。
《植物図鑑》=《明示的な写真》は仮想的な存在でいいのだ。
鑑賞者が《明示的な写真》を見る度に、写真体験の連続は、延長し、差異が生まれていく。
写真体験とは一度として同じ経験ではなく、どんどん脱構築され、差延する。
“記憶”は書き換わりつつも、“記録”の存在は揺るがない。
写真は化石として変化しない=明示的だが、写真体験はどんどん変化する。

写真には、自然/見たまま/心が写る、などの意味が含まれるが、撮影者/被写体/複数の鑑賞者に連続性はあるが同一の体験ではない。
それを、ベンヤミンはアウラの喪失と言ったし、デリダは差延と言ったし、バルトは写真のノエマと言った。
と保坂は理解してる。

またテクストがその「外」に帰属する地点(指示対象、世界)においても、記号学者バルトは参照される「現実」をきわめて慎重に括弧に入れ、記号からの指示を宙づりにしてしまったのである。いわゆる「レアリスム」文学にあっても、「現実」そのものではなく「現実効果」(effet de reel)や「レフェランス幻想」(illusion referentielle)が問題であった。また映画や写真においてさえも、それが「〈自然〉の効果」(effet de Nature)を必ずや含んでおり、この「自然的なもの」が真理の源泉として機能してしまうことに対して、彼は警戒を解いてしまうことはなかった。

現前という狂気 梅木達郎
『明るい部屋』の秘密―ロラン・バルトと写真の彼方へ (写真叢書)

うん《明示的な写真》=《植物図鑑》を経由して、写真を考えるのはいい。
《中平卓馬》は偉大な父だな
《明示的な写真》を目指した大いなる父、乗り越えるべき父、不器用な父。
物分かりのよいおじさんたる森山大道とは、ちょっと違う。
二月の近美「中平卓馬 火―氾濫」が非常に楽しみだ。

どっとはらい
2024/01/02 16:58

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