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読書と写真とThreadsが楽しい

最初に、Threadsがたのしい。
Twitter/Xは完全に読み選、Facebookは連絡用、Instagramはエスキースを上げてる感じ。そして長文を投稿しているのが Threadsだ。
いま日々の思いを Threadsにあげ、ここ noteにまとめている感じ。
やってて思うけど、Twitter/X はやっぱり文章の世界であり、気が利いた一言を発せる人が評価される。
だからこそ《ビッグマウス》が横行する宇宙でもある。
一方で Threadsは背景として Instagramがあり、そもそも写真が無い人は評価されない。
またその写真も、どんな人生を送っているか? が基にフォローされる。
だからこそ《ルッキズム》が横行する。
とはいえ、ビッグマウスよりもルッキズムの方が手間がかかる上、いろんな意味で見通しが効く。
もうお里がばれてしまう、底が見えてしまう、いろいろお察しできる。自分の浅さがばれるのは、しょうがないと保坂は思えてる。
でもだからこそ Threadsの治安のよさに繋がるかな、と思ったりしちゃったりしてる。(リスペクト広川太一郎)

いまカラー写真が楽しい。
横木安良夫先生の《クリコ》、『超銀塩的写真レタッチ (玄光社MOOK)』 を改めて読んだ。
2018年出版、アプリもカメラも進化したけれど、写真をどうするか?は変わってない。
保坂は基本、焼き込みもシャープネスも、全てiPhone上のLightroomでやっているが、自分の手法が間違っていなかったことを、ここで確認する。
写真の立体感はモノクロ時代からの手法として、ライティング/焼き込みといった“明るさ”、ピント/シャープネスといった“精細度”、のコントラストをつけることで、背景と主題を分離/差異をつけて、視線を誘導している。
最近、保坂は第三の方法として、ホワイトバランスを変える、ということを見つけて焼き込みが楽しくなっている。
これは Threadsをみてて、《フイルムのエモさ》って「ミックス光の色被り」なんじゃないか? と気がついたのが、事の発端だ。
iPhoneや 最新のミラーレスは、ミックス光の色被りを丁寧に排除していて、一枚の写真上でもパートパートごとに微妙にホワイトバランスを変えている節がある。
ホワイトバランスが的確さが、デジタルの《監視カメラぽさ》につながってると思う。
トップの焚き火も、炎と背景で色温度を変えてる。
写真を始めて二十年?
やっと、自分のカラーにOKが出せている。

読書が楽しい。
いまポスト構造主義からの写真論に回帰してる。
ポスト構造主義の、理解の難しさ≒日常感覚からの乖離≒脱構築したいポイント、がようやくわかってきた。
きっかけは、バルト『明るい部屋』における写真のノエマ《それはかつてあった》に対応する、デリダ『差延』の一節を見つけたところからだ。
《差延》とは、空間的差異と時間的差異、政治的差異(争い)を含む、デリだの中心概念らしいのだが。

したがって記号とは差延された現前性=現在性だということになる。

旧版『哲学の余白』p44

したがって、記号とは差延された現前だということになるでしょう。

新装版『哲学の余白』p44

デリダ『差延』によるとハイデガーの時間の考え方が大事らしい。
ということは、バルト『明るい部屋』の「それはかつてあった」の時間も、《ハイデガーの時間》を踏襲している考えられる。
つまりは“かつて”とは“昔”の意味ではないらしい。
《ハイデガーの時間》とは保坂語である。
正確には過去を「既在(これまでの自分を引き受けること)」、未来を「到来(あるべき自分の可能性)」、既在と到来が出会うところを「現在」と考えるらしい。
バルトは過去・現在・未来という時間の矢とか、原因と結果という因果律をひっくり返す(≒脱構築する)モノとして写真を見ている、と保坂は読んでいる。
時間をひっくり返す存在としての写真!
それが「写真の物質性」ってことなんだ。

さらに、シャーロット・コットン『新版:現代写真論』とタシタ・ディーン⦅Analogue⦆を掘る。
物質性が叫ばれたのが、シャーロット・コットン以降という保坂の体感があるので、当該ページを改めて読んでいる。
「8章フィジカル、マテリアル」という章のタイトルは、タシタ・ディーン『アナローグ』というカタログ本から取ったとの記述があったので調べてみた。
展示のレポートによると。

ディーンの「アナログ」とは、「オリジナルに似たオブジェクトの表現。転写や翻訳ではなく、並行形式の同等のもの」を意味します。
彼女は、ロレイン・ダストンとピーター・ギャリソンによって追跡された科学的イメージに『客観性』を創造しようとする試みを思い出させ、表現の特定の材料に注意を払いました。

https://journal.sciencemuseum.ac.uk/article/tacita-dean/#main-body

タシタ・ディーンにとっての、写真の物質性とは、プリントや写真集の“質量”ではなく、写真存在に流れる“時間”の問題である気がする。
この時間感覚は「ハイデガーの時間」と同じだと保坂は思う。
(あーロレイン・ダストンとピーター・ギャリソン『客観性』って、読んでノートに書いた、あの本だ。)

まだまだ、まとめるべきことはあるが、今日はこのくらいで許してやろう。(^^)
どっとはらい
2023/12/24 16:27

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