見出し画像

BORN TO RUN 『BEHIND THE MASK I』


 誰もいない道場で独習を終え、マットにモップをかける。
 後はもう、電気を消して、鍵を掛けて帰るだけ。
 襲撃者はそんな時間を狙って、何気なく現れた。
 最初は一瞬、門下生かと思ったが、マスクで半面が隠れているとは言え、まるで見覚えのない顔である。門下生でない事は明白だった。
 その襲撃者がただの強盗でない事もまた、明白だった。何もないであろう道場に、それも、まだ灯りのついた道場に、何を盗みに入ると言うのだ。
 そして、その手には武器も道具もない。あまつさえ、気配が違う。コソ泥の気配などではない。体軀から滲み出る闘気が、物盗りなどではないと物語っている。
 この男の事は知らない。だが、この男の事は知っている。
 とうとう来た。いや、待っていた。
 道場主、瀬能徹の思考に恐怖と緊張と悦びと興奮が駆け巡る。
 辻斬り。そう呼ばれている通り魔だ。
 武術家、武道家、格闘家のみを狙って闇討ちを掛けるという。噂は耳にしていた。いや、噂だけではない。それと思しき被害に遭った武術家も知り合いにいる。
 表沙汰になっていないだけで、襲われた武術家は相当な数になるのではないだろうか。
 曲がりなりにも「強さ」を売りにしている人間だ。
 闇討ち、不意打ちとは言え、「真剣勝負に負けました」なんて言えようはずはない。
 警察沙汰になっていないというだけの話で、その実は100にまで到達するのではないか。瀬能はそう考える。
 辻斬りと思しき人物に襲われた武術家は、言っては悪いが、瀬能よりマイナーな存在だ。
 その彼が闇討ちにあった。護身術の道場を開いている武術家である。以前より付き合いがあり、お互いの情報交換もしている。
 だからこそ彼は、周囲には事故に遭ったと告げたが、瀬能には事件の真相を打ち明けた。襲撃者は思ったより近くにいるかも知れない、と。
 「瀬能さんだね」
 マットを拭いていたモップを止める。
 「ええ。あなたは噂の辻斬りさん?」
 「察しが良くて助かるよ」

 襲撃者はマスクの下で嗤った。
 瀬能は、少しは名の知れた武芸者である。
 元々は古武術や護身術を学んでいたが、それが実戦で通じるのかを知りたくなり、空手、柔道、ボクシング、総合格闘技などを学び、それぞれの大会でそれなりに優秀な成績を残している。
 才能も実力も間違いなく充分だ。しかし、才能に恵まれているが故にわかる事もある。そう。それぞれのエキスパートには歯が立たないという事だ。それはおそらく、幼少期よりボクシングに専念していたとて、敵わぬ天才がいると言う事に他ならない。体格の向き不向きの問題ではなく、性格や、練習量の問題でもないのだ。空手の申し子、ボクシングの天才、格闘技界のモンスター。そう言った存在には勝てない。
 瀬能は確かに才能に溢れている。しかし、それは何をやらせても上手い、強い、という小器用さだ。単なる器用貧乏だと、瀬能は自嘲する。
 だが、己の弱さを認め、それを活かす事もまた、強さだと瀬能は考えた。
 様々な格闘技を学び、自分に合う技を見つけ、磨き、アレンジをかける。元となる古武術をベースに、自分にフィットし、実用的で実戦的な技を、本当に使える技のみを選りすぐった。
 言わば、瀬能流のオリジナル武術である。
 そして、何でも出来る才能は武術だけではない。各種大会やプロ競技への参戦もこなし、名前に箔を付けて道場を開いた。
 プロモーションも、営業も、経営も、そして、コーチングも難なくやれる。それに、運もいい。
 同じ通っていた空手道場に、俳優の倉科賢太郎がいたのだ。正確には、俳優として人気が出る前の倉科賢太郎である。
 瀬能とは疎遠になっていたが、持ち前の営業力で倉科に近付き、友人という立ち位置を確保した。
 そして、爆発的な人気が出るよりも早くに、格闘技道場としてネット配信チャンネルを立ち上げ、倉科をゲストとして呼び寄せる事に成功した。
 SENO channel。格闘技ファンならば一度ぐらいは観た事のある配信チャンネルであろう。
 瀬能が第一人者ではない。だが、様々な格闘技から、様々なゲストを呼び、お互いに技を披露するというスタイルを逸早く確立できたのである。
 驚異的な公式記録を持つ訳でもなく、TVに引っ張り凧な訳でもない瀬能の顔が知れているのは、ネット配信のお陰であると言っても過言ではない。
 そのネームバリューがあれば、辻斬りが現れても不思議ではないのだ。だからこそ思うのだ。とうとう来た、と。そして、待っていた、と。
 道場の生徒には「実戦で技を試そうなんて考えるな」と教えている。逃げろ。それが最善策だ、と。だが、瀬能の本音は違う。
 鍛錬した技を何の躊躇もなく試す事が、いや、試合ではない。試すのではない。磨き続けた技を遠慮なく使えるのだ。
 こんな日をどれほど待ち望んだことか。
 辻斬りの情報はそれなりに集めている。ネットに出回っている、辻斬りと思われる映像も下調べ済みだ。
 予想と違った事は、道場にのこのこと現れたこと。
 そして、思っていたより大きい事である。
 全身を黒いトレーナーとマスクで覆っている男。身長は180cmに届くぐらいか。いや、ひょっとしたら超えているかも知れない。
 聞いた話と、ビデオに映った姿よりは巨躯に感じられる。だぶついたトレーナーでハッキリはしないが、筋肉も細くない。胸板のせり上がり具合からすると、武術家と言うよりは格闘家のそれである。
 「立ち合ってもらえるかい?」
 辻斬りはそう言いながら道場の中央へと歩みを進める。態度が太い。何人もの武術家を襲撃し、おそらくそのほぼ全てに勝利している手練れだ。悪い意味での緊張感など持ち合わせていよう筈もなかった。
 だが、それは瀬能も同じだ。プロの試合もこなした。選手として、武術家として、道場の経営主として、場数は踏んでいる。
 それも全ては、学んできた武を全力でぶつけていい相手を求めていたからだ。
 逃げるために武を学ぶなど、綺麗事に過ぎない。戦わないために強くなるなどおためごかしである。やりたいのだ。命の駆け引きが。
 いや、この平和な日本で、生き死にと言う命の遣り取りはない。それは瀬能も理解している。だが違う。
 幼少期より武とあり、武と育ち、武に捧げてきた。この瞬間に負けると言うこと。それは瀬能の人生の否定である。
 「土足厳禁です」
 瀬能が、構えもせずに近寄る男を止める。
 「ああ、こりゃ悪かった」
 男は素直に言葉に応じ、屈み込んでスニーカーを脱ごうとする。刹那。
 瀬能が動いていた。
 持っていたモップの柄を全力で突き入れる。だが、感触はなかった。
 しゃがんだ姿勢のまま、男は首を傾けただけで、モップの攻撃を躱していたのである。ボクシングで言うヘッドスリップ。
 ━━残念。
 襲撃者は、マスクの下で嗤った。
 惜しかった。それが襲撃者の本音である。戦う前から、瀬能が偽物の武芸者でない事はわかっていた。弱くなどない。強い。本物だ。
 だが、惜しい。
 瀬能には碌な喧嘩の経験さえない。さもなくば、襲撃者の勝利は危うかったかも知れないとさえ思う。
 襲撃者の足を止め、注意を引きつけてから、容赦なく武器で襲う。これを躊躇なしにやれるのは、間違いなく瀬能が本物の武芸者だからだ。
 だが甘い。モップを武器に打突するなら、威力の高い柄ではなく、確実に当てられるモップの部分で攻撃すべきだった。ネットのチャンネルで、優しい笑顔を振りまき、誰とも仲良くやれる優等生。それが瀬能を縛り付ける鎖なのだ。そんな連中には負けない。負けるはずがない。相手の実力の方が高かろうと、泥臭さを知らない優等生に負ける道理がないのだ。
 矢継ぎ早に二撃三撃と繰り出されるモップの打突を、ヘッドスリップだけで躱す襲撃者。当たらないとも。当たるはずがない。襲撃者は後ろに跳び退き、低く構える。襲撃者は自分の圧倒的有利を悟った。


 空手界から、キックボクシングへ転向。そんな話は幾らでもある。似ているとは言え、勝手の違う世界へ飛び込めば、痛い目を見るか。いや、案外そうはならない。
 理由は簡単だ。キックボクシングにはキックボクシングの戦い方がある。そこに突然、勝手の違う空手の戦い方を持ち込まれるとどうなるか。案外、困るのはキックボクサーの方なのである。
 何故なら、挑戦者は勝手が違って当然と思って来るのだから。
 しかし、この空手の選手がそのまま勝ち続けられるかと言うとそうではない。困ったことにどんどんと弱体化する。
 理由は、研究されて攻略法を見つけられるからではない。
 次第にキックボクシングを覚え、染まり、キックボクサーとして強くなっていくからだ。
 キックボクサーとして成長すると言う事は、キックボクシングに一日の長があるキックボクサーが勝つという単純な話だ。
 もっと簡単に考えるなら、喧嘩における武器を想像すればいい。
 剣道家とボクサーが喧嘩をするとして、素手同士ならボクサーが有利になる。
 では、ボクサーが竹刀を持った場合、これでもやはりボクサーが有利であろう。
 しかし、両方が竹刀を手にした場合、突然として剣道家が圧倒的優位に立つ。
 この時、ボクサーは竹刀を捨てた方が、まだ自分の不利を減らせるのだ。
 自分の得意技であるボクシングを使用できるし、相手の剣道家は未経験である無手のボクサーと戦わなくてはならないからだ。
 襲撃者にとって、この状況は両方が竹刀を持った状態なのだ。武器を手にしているのが瀬能であろうとも、それは何ひとつ不利ではない。
 闇討ちというルールでの戦い方に慣れている襲撃者に対し、瀬能は正々堂々と勝負をした方が有利だったのである。だが、瀬能は自ら、未経験の闇討ちルールで、闇討ちの戦い方を仕掛けた。襲撃者にとっては思う壺である。
 跳び退いた瞬間を狙って、追撃を掛ける瀬能。
 その瀬能の視界を見慣れぬものが遮った。
 スニーカーである。
 襲撃者は屈み込んだあの瞬間、即座に靴を脱ぎ、跳び退きざまに投げつけていた。
 咄嗟に躱す瀬能。いや、どちらが先か、瀬能の肉体がつんのめった。
 襲撃者が突き出されたモップを踏み付け、蹴り折ったのである。いや、折れた事は幸運だったかも知れない。さもなくば、モップを握り込んだ両手のために、全身が硬直する羽目になっていたからだ。
 襲撃者は勝利を確信した。
 スニーカーを躱した反射神経は賞賛に値する。だが、それが何だ?スニーカーをぶつけられたところで、痛くも痒くもない。そんなものを避けてしまうからー、
 瀬能の右鎖骨の辺りに妙な感触があった。
 勝負の途中だと言うのに、視線がそれを追う。
 瀬能の首元から、木が生えていた。見覚えのある木。一瞬前に折られたモップの柄である。
 襲撃者は折れた柄を掴みざま、棒手裏剣のように投げつけていた。
 不幸な事に、偶然にも折れた柄は刃物のように鋭利な形を成し、瀬能の首元に刺さったのだ。だが、重さがなかったお陰か、幸運にも傷は浅かった。
 しかし、混乱に意識を奪われるには充分な時間だ。
 ━━まずい。
 そう思った時には遅かった。顔面に膝蹴りがめり込んでいた。
 ━━まずい。
 視界が闇に閉ざされていく。非常にゆっくりした時間が訪れる。
 ━━ああ。意識を刈られたのだ。いや、まだ意識も思考もある。先に、脳から肉体への伝達が途切れたのだ。視界が上方から暗くなったのも、おそらくは白目を剥いたからだろう。
 指先ひとつ、ぴくりとも動かせない。心地良い脱力感に見舞われている。脳から肉体への伝達はすべて切断されたが、肉体から脳への伝達は残っているらしい。
 まだ瀬能の意識が切れたと気付いていないのだろう。
 膝蹴りから、浮き上がった首へフロント・ヘッドロックが掛けられる。そしてそのまま、首を脇に抱え、後方へ倒れ込む。
 プロレスでいつしか多用されるようになった技、DDTに近しい。
 視界は既に閉ざされており、迫り来るマットは見えなかった。ただ、自分の肉体が中空に浮いた感覚だけは残されていた。
 薄れゆく意識の中で、瀬能はぼんやりと考える。敗北したのだ、と。
 そして、閉ざされる寸前の意識で、こう思った。
 ━━この辻斬りは、「本物」なのか?
 模倣犯だとしたら。いや、本物と模倣犯で、本物の方が強いとは限らない。
 だがそれでも、模倣犯に負けたのだとしたら、それは途轍もない屈辱だった。
 数日後、瀬能は自らの配信番組内で、辻斬りに襲われて敗北したこと、そして、その辻斬りがおそらく模倣犯であること、そして警察への被害届を出さないことを告白した。
 この放送は賛否大きな反響を呼び、結果としてSENO channelへの登録者は1.3倍に増えた。
 瀬能にとって、番組視聴者が増えればプロモーションとして「勝ち」であるという打算はある。また、本物であれ模倣犯であれ、その暴露が彼らへの痛手になるという考えもあった。
 しかし、瀬能にとっての一番の動機は、
 「敗北を認めることが、最も困難な選択肢だったから」
 である。

 ※この記事はすべて無料で読めますが、格闘技好きもそうでない人も投げ銭(¥100)をお願いします。
 なお、この先にはあとがき的なものは書かれていません。


ここから先は

59字

¥ 100

(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。